泣きながら
「履かせて」
なにを言ってるんだ、また、このひとは――そんなに楽しそうな顔をして。純粋そうな、表情をして。そうは思ったけれど同時に、ああ、……そういう要求をしてくるひとなんだと、僕は一種諦めに似た気持ちで、受け入れつつあった。
さきほど口で置いたばかりのハイヒールに、僕は両手を伸ばそうとする――するとその両手がすぐ、もうひとつのハイヒールの釘のようなかかとで、封じられる、……たぶん深い傷にならないようにわざと手首の固いところを狙ってきたんだろうけれど、痛いものは、痛い。
「どうして手を使うのよ。犬みたいにやって、って、わたし言ったでしょう?」
言ってない――犬みたいにとってこいとは言ったけど、犬みたいに履かせろ、とは言ってないじゃないか。でもそんなことを言っても無駄だ。僕は、だからなにも言わず――感情をどうにか飲み込むために、……強く口のなかを噛んで、そのまま、置いたハイヒールに口を近づけようとしたんだけれど。
「返事!」
今度は背中にハイヒールのかかとが刺さった――はいっ、と僕は思わず言ってしまった。考える前に、言葉が口から飛び出ていた。防衛本能。中学のときに習った、基礎的な人間心理学を……こんなときに、思い出す。
口のなかをもっと強く、血の味がするほどに、噛んで――僕は置いたハイヒールを口でくわえあげると、そろそろとした動きで、その白いソックスの足に近づけた。南美川さんの足は、もてあそぶように、蝶が舞うようにひらひらとした。おかげで、履かせづらい。その足が、僕の動きが、絶妙に噛み合わなくて――僕はハイヒールをやはり落としてしまう。そうするとまた背中の、さきほどよりもさらに頭蓋骨に近いようなところが、ほとんど垂直に蹴られる。僕は反射的に、ごめんなさい、と謝っている。いまにも泣いてしまいそうだ、その前にどうにか終わらせたくて――必死で、その足に、ハイヒールを履かそうとするんだけれど。逃げる。逃げ回る。つかまらない――僕はもう涙を堪えるのも限界に近かった。
自分で、やっておけと、言いながら。自分で、そうやって、やりづらくする――そうやって楽しんでいるんだもちろん、……もちろんとわかっていても、こんなふうにこんなに圧倒的に降りかかったこの仕打ちは、僕のなにかを――いまこの瞬間も、ずたずたにし続けている。
呻き声が、出た。……ほとんど情けない涙声みたいな。
もういいから、僕のくわえたこのハイヒールを、早く履いてほしい――もう、いいから。
すると、するっと。
驚くくらいに、スムーズに――赤いハイヒールは、白いソックスの足に収まった。見上げると、……南美川さんは、満足そうな顔をしている。
「ほんと、一生懸命だったわね。かわいそうになっちゃった。よくできたわね、シュンは、いい子いい子。ねえ、やだ、そんなに泣かなくったっていいじゃない。うまくいったんだから。やだ、……ふふっ、ねえみんな、シュンってばちっちゃい子みたいに泣くのね」
南美川さんは。
僕の頭を、ぐりぐりと撫でまわす。
手で、ではない。赤いハイヒールを履いた足で。その裏で。僕をあんなに痛めつけてきた、かかとで。ぐりぐり、ぐりぐりと――這いつくばったまま、涙腺が壊れてしまったかのごとくぼろぼろと涙を流し続ける僕の頭を、撫でる、撫でる。
「よくできたんだから、いいじゃない。ねえ、……返事くらい、してよ」
「……はい」
しゃべりたく、ない。こんなときに。こんな状況で。こんな涙声で――。
高校二年生にもなって、……こんな。
「よかったわね。じょうずにできて。……嬉しいわね?」
「嬉しい……」
ハイヒールのかかとが、敏感に僕の頭のてっぺんを、撫でる。
「嬉しい、です」
です、と言った。言い切った。そのことがさらに、……涙を、壊れたように溢れさせる。
僕がいまこの教室で、いちばん近いのは、床。
南美川さんは、足で、そんな僕を撫で続けた。僕は――ただ泣いていることしかできなかった、嬉しくない、こんなの、ぜんぜん嬉しくないのに僕はどうして、……嬉しいだなんて、言わなければいけないんだ。そんな思いに心は焦げて――でも、そんな主張さえ、できない。劣等者だから。僕は。この集団で教室でクラスで――劣等者、ということらしいから、……どうにも。
南美川さんは、勝ち誇っているのだろう。決定的に。きっと。……徹底的に。
ああ。いやだ。――いやだ。
劣等者というのは、これが、……こんなことが、日々続いていく――というのか、そんなの、……そんなのって、ないよ。
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