流し、蛇口、オートマ化、オールディ

「わかったなら、よろしい」


 母さんはそう言って、腰から手を離した。ふっ、と雰囲気が緩む。

 優しい顔になる。これは、母さんが子どもたちを見るときに、よくそうする表情――ああ不出来な子どもでごめんねって、こちらが拗ねるように、言ってしまいたくなるような。そんな思考は、まったくもって子どもじみてると、もちろん自覚はあるけれど。



 ……廊下の明かりが柔らかい光、母さんが柔らかい影。

 コントラスト。

 僕はコップを右手に持ったまま、母さんを見ていた。見えるのだけれど、見えづらいから、なんだか見やすい。母さん。……いつのまにか、小さくなった。いや――正しく言うなら僕のほうが背が伸びた、ということなのだけれど。

 母さんも、僕を見ていたようだった。



 そんな妙な沈黙が、長すぎず、短すぎず続いた。



「……もう、寝るよ」

「うんうん。そうしなさい」



 僕は、コップに残った水を飲み干そうとして、でも案外残っていたそれを飲み切るのもなんだかなあと思って、流しに捨てた。水が吸い込まれていくようすを見つめながら、僕は思った。……きょう学校でされたひどい仕打ちを思い返しながら、思った。



 こんなこと。

 もちろん、母さんに言うわけにはいかない。家族のだれにも。

 動揺させてしまうだろうし、これは僕の問題だ。……僕だって高校生だし、ひとりの人間だ。自分の問題は、自分で片づけなくっちゃいけない。


 だから。つまり。

 そういうことを、言うからではなくて。

 なんというのかな。その。


 ……いまもし母さんと話をするならば、なにを話せばよいのだろう。

 もうずっと長いこと、話だなんてしてない気がする。それこそ小学生のとき以来か、っていう。いや実際には話しているのだろうけれど――なんというか。腰を据えて、用件でないことを話す、というか。


 でも僕はなんでこんなことを考えているのだろう。

 ……母さんと話したがっているのか?

 高校生にもなって。恥ずかしい。そんなの、劣等者みたいだ――。



 ……僕は左手で、後頭部の髪の毛を、ぐじゃぐじゃにするつもりで掴んだ。結論ならば、出たから。

 蛇口を捻って、コップを、水で軽くすすぐ。あとはオートマ食洗機に放り込んでおけば、家族が寝ているあいだにぴかぴかにしてくれることだろう。



「……それじゃ。寝るよ」


 キッチンから出ようとすると、ねえねえ、と母さんが話しかけてきた。明るく。

 僕は、流しの前で立ち止まっている。


「うちのさ、その流し。オールディだって、思わない?」

「……え?」


 いきなり、なんの話だろう。


「いまどき、蛇口を捻るなんて、なかなかないでしょう」

「それは、まあ、たしかに」

「母さんも思うのよ。オールディだって。それにお高くつくし。全部オートマにしちゃったほうが、安上がりってことも知ってる。そういうの、まったく知らないわけじゃないのよ?」

「……はあ」

「でも母さんほらむかしお弁当屋さんで働いてたでしょう。業務用の台所がね、キッチンだなんて言わないんだから、台所なんだから、とにかくその台所がね、オートマ化してなくて。店長さんがそうしたかったんだって。ご近所からは変わり者の弁当屋って見られてたけど、母さんは、あの台所が好きだったなあ。オートマ化されてなくて、人工知能をひとことも呼び出さなくても、人間の力ですべてできてね。母さんね、思ったの。ぜんぶをオートマ化する必要はないんだって」


 僕は、聴いてはいたけれど、返事をしなかった。ただ、……流しや台所以前に、その考えがそもそも、オールディだな、とは思った。


「……それでうちの流しもオートマ化してないところがあるってわけ。どう? すこしわかったでしょ、わが家の秘密、ミステリー」

「そもそも蛇口がオールディなことについて、考えてみたこともなかった。……おやすみ」

「はい、おやすみ、春」



 僕は今度こそ母さんの隣を抜けて、二階にあがって、自分の部屋のドアを開いた。ひとりに、なってしまう。……思い出したくもないことをきっと思い出し続ける夜が、来る。

 流しも、蛇口も。オートマ化も、オールディも。どっちでもいい。たいして興味のない話だ。でも――ああいう話をしているときには明確に向き合わなくてよかったものも、……自分の、部屋では、容赦はしてくれない。

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