返される
教室に僕が足を踏み入れるなり、南美川幸奈がニヤニヤとこちらを見ていた。そばの席に座った奏屋繭香の肩をつついて、意味ありげなひそひそ話をする。
くだらない。心のなかではそう吐き捨てて、一蹴したつもりでも――僕の顔はやっぱり真っ赤になっていて、自分でも抑えがたかった。冷めて、冷めてくれよ僕の頬、と思ったけれど、……そう簡単にはいかず。
僕はかばんを机の脇にひっかけると、つっぷして、あとはひたすら時が過ぎるのを待った。南美川幸奈がいつ肩でも叩いてくるかとちょっかいを出してくるかと気が気ではなかったけれど、結果的にはそういうことはなかった。
ただ、南美川幸奈がクラスメイトたちが登校するたびおはよーと無駄に明るい挨拶をして、雑談を交わして、あとはずっと、仲のいいクラスメイトたちとしゃべって――つまりは朝の時間ずっとずっとしゃべり通しだということに、僕は、……いつも以上に気がいって、だから、ほんとうのところ気が気じゃなかったんだ。
そうこうしているうちにチャイムが鳴ったが――研究者志望クラスは、かならずしもチャイムに縛られない。参考程度の情報でしかない。研究者志望クラスに入れるほどの優秀さがあれば、時間の自己判断もできるとみなされるからだ。一般クラスであったらここで、自分が決まりをきちんと守れる人間であることをアピールするためみないっせいに席につき、ぴしっと座っていたものだけれど――このクラスは、まったく様相が異なる。毎朝、毎朝、……チャイムだなんて存在しないかのように、朝の楽しい、すくなくともあいつらにとっては楽しいんであろう時間を――続ける。
やがて教室の前のドアが開く音がして、和歌山の気のない挨拶が間延びして教室じゅうに聞こえた。南美川幸奈が、それじゃあまたあとでねーっ、と言っている。ほかのクラスメイトたちも、じゃあ、とか、またねー、とか、言い合っている。そういうことに参加していないクラスメイトは、もしかしたら、僕だけかもしれない。
教室が静かになっていく。
……僕は、仕方なく顔を上げた。他人の視線が突き刺さるのをもろに受けてしまわないように――ただ一直線上の、黒板とその下の壁の狭間だけに、視線を固定することにして。
青空を見ることだってもう、……この教室においては、ある意味無防備すぎるのではないかと思いはじめている。成績が出る前の僕への注目とは、違うんだ。悪い意味で、もちろん当然すごく悪い意味で僕はいま――目立ちはじめてしまっているから。
じゃあ適当にはじめようかだなんて和歌山のほんとうの適当な指示にも、学級委員でもある峰岸狩理は怯まない。淡々と号令をかけ、起立、礼、着席。研究者志望クラスにおいてだってさえ、こういう学校文化は生き残っている。
学校からの連絡事項を、出席簿の上に置いたらしいアナログペーパーを見ながら和歌山が読み上げていく。棒読みって感じだ。ほんとうに、ただ伝えろと言われた連絡事項を読み上げているのだろう。単純マシンのように。
「そんじゃあ、まあ、みんなー」
和歌山は、適当ながらもそこそこ愛想のいいようすで、クラスに語りかけていた――昨日までだったらこの担任教師に対して、おもしろくもなく、自分で自分の言ったことに笑ってしまう、空寒い教師、とだけ思っていればよかったが。いまはもちろん事情が違う。いまは――僕は、昨日の和歌山の剥き出しになった本性を知っている、……僕のことをおまえと呼び、自分自身のことだって俺とか呼び、めちゃくちゃなことを言った、嫌な臭いのする教師。
「私のほうからは、みんなに返すものがある。なんだか、わかるか? おっ、わかりますかあ、じゃあ奏屋さん!」
和歌山はおどけて、両手をピストルのようなかたちにして、はーいと手をあげた奏屋繭香を指名した。はーいと奏屋繭香はもういちど言って、手を下げて発言する。
「偏差値の発表ですー!」
「そのとおっり! ですー!」
和歌山は、生徒に媚びて。
相変わらず、……なにもおもしろくない。なにもおもしろくない、が、……僕はいま、そのことを考えてばかりもいられないのだ。
そういうわけで。
朝いちばんのホームルームで。偏差値の書かれた成績表が配られることになったのだから。
「えー、私がみんなの名前を呼びますのでー、呼ばれたひとはあー、前に出てきてください。偏差値表を、プレゼントフォアユー。なーんてね。中年のおっさんからのプレゼントなんて嬉しくもないか!」
あはは、と和歌山はまたひとりで笑った。そんなことなーい、嬉しいよーっ、とおどけて言ったのは――そうか、いつもこうやって和歌山の寒い発言に合いの手を入れてやってたのは、……意識してみれば、南美川幸奈だったのか。
返ってくる。
事実が。
偏差値が、書かれた、結果が。
だいじょうぶ、だいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶ、なにかの間違いだ、そうに決まっているんだから。だから、だいじょうぶ、だけれど――ああどうしてだろうどうしてこんなに、緊張しているのか、不安なのか、僕は、……僕は、わからない、けれどわかることがあるとすれば――怖い。
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