アナログペーパー
和歌山はいちおう僕の名前もここではくんづけで呼んだ。ほかの生徒の目もあってのことだろう。僕は返事もせず、立ち上がり、和歌山の前に立った。僕が目の前に立つと和歌山はたしかに、ひょうきんで寒いけれど気のいいおじさん教師の仮面をわずかに取り去って、ニヤリと蛇のように笑った。僕はすぐにうつむいて視線を逸らした。むしり取るように、そのアナログペーパーを――僕、来栖春の定期テストの偏差値が記されたそれを、受け取った。
手元には。
アナログはがきのような、小さくて、すこし硬い紙。
成績表がアナログペーパーで返されるというのも、ある程度の優秀者にとっての、ある種の特権だ。アナログは、デジタルよりもプライバシー権が尊重される、とされている。したがってたとえば人権制限者や人間未満のデータの管理は、おもにアナログで管理されるが――ある程度の偏差の人間のデータは、こうやってアナログで取り扱われることが多い。
逆流してますよ、と、あれはいつだったか、ある日の朝の食卓の、オープンネットのニュースチャンネルでそう言ってるデータ専門家がいた。そこそこの年齢で、旧時代もわずかに経験したひとのようだった。けれど僕はべつに、そのことに疑問をもったり噛みついたりはしない――そういうものだって思っているから、生まれたときからそういうものだったんだから。
だからむしろアナログメインのやりとりというのは、優秀者のあかしとして、憧れていたのだ。自分のデータを――自分の手で、管理できるだなんて。
いま、ひとつの憧れが、かなったはずだ。
けれども僕の心はまったく浮き立たない。それはそうだ、当然だ、こんな状況でこんな事情で――自分のデータと対面することになるなど、思ってもいなかったのだから。
周りでは。
みなとくに躊躇せず、紙をぴりぴり開けていく。……やたら慣れた手つきばかりだ。つまり、ということは、いままでデータがアナログで取り扱われることが当たり前で、そんな環境のなかで過ごしてきた――もしかしたらこのクラスの人間というのは、……そういうやつばかりなのか、いやそりゃ研究者志望クラスだから、ある程度そうなのかなとは漠然と思っていたけれど、でも、でも、……いや、ほんとうに、じっさいに、そうなのか。
席について、各々開封していく形式だ。一斉に開けろとも、開くのを待てとも言われない。そこも、優秀者の集まるクラスらしい。自由だ。
けれどもいまは、その自由ささえも憎らしかった――だっていつ開いてもいいのだ。自分が、見る、と決めたタイミングで。いつでも……いつでもいい、けれどもずっと先では駄目だ。あくまで、あくまでも、この時間内に。朝のホームルーム、和歌山が全生徒にこれを配り終える前に――僕は憎らしかった、恨めしかった、たぶんほんとうは、……自分の気が引けてしまっていることが。
――偏差値、二十九。
僕の席よりも前方に座る峰岸狩理の背中を、そっとうかがった。もうとっくに偏差値表は返されているようで、タブレットデバイスを使って読書かなにかをしている。偏差値表のアナログペーパーは、開いたあとにきちんと閉じて、スマートでスリムなブラックのペンケースを重しみたいにして、置かれている。とくに価値もない、でも保管だけはしておかねばいけないと峰岸狩理が思っていることがあらわであるかのような、そんな置きかただった。
……あいつが僕の偏差値をそんなふうに計算した。
きっとなにかの間違いなんだから、あるいはただの悪意なんだから、だから、間違っていることがわかったらいますぐこの成績表を手にあいつの席まで行ってこれを見せつけて証明して僕に謝罪させよう――そう思った瞬間心に弾みがついて、……手が動いた、開けようと思ってもこんなに動かなかった手が動いて、ペーパーを開ける、開けようと、したのだけれど――嘘だろう、僕はこのアナログペーパーの開けかたがわからない。
当然といえば、当然だ。現代において、優秀者街道を走ってでもいなければ、そんなにアナログペーパーに馴染みはない。でも、でも、こんなときに。こんなところで。――間が悪すぎやしないか、僕。
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