家を出るとき
翌日は、すこし早めに登校した。
早めか、遅めか、迷ったのだ。登校時間。早くすれば、教室にいる時間は長くなってしまうけれど、もう荷物も置いて教室に入り終えているのだから、あとは机に伏して寝てでもいれば、なんとなく気配を消せるかもしれない。いっぽうで遅くすれば、教室にいる時間じたいは短くできるけれど、すでに登校しているクラスメイトは多くなるわけだから、教室に足を踏み入れるその瞬間に過剰に注目されてしまうかもしれない。
迷ったすえ、……早め、のほうを選んだ。クラスの視線というのは、すごい、すさまじいものがある。教室の扉のラインを踏み越えるときに集まる注目というのは、すごいものがある、こういうときにはなおさら――だから、どちらにもリスクはあったけれど、……まだ見逃される可能性の高いほうに賭けることにしたのだ。
普段よりちょっと早く家を出る理由を、母さんは訊いてこなかった。ただ、なにかを期待されているような気はした。朝ごはんを出してくれるときも、朝ごはんを食べる僕を両手で頬杖をついて見ているときにも、いってらっしゃいと玄関で送り出してくれるときにも。
僕の母さんは、こんなこと思うのもなんだけど、優しいと思う。いつもにこにしてるし、生活習慣や家庭の決まりごとには厳しいけれど、それはつまり叱るときのルールが明確だということだ。不機嫌だったり自分の感情を理由にして叱ることは、まずない。そして、子どもたちのプライバシーにも、必要以上に干渉してこない。こっちから話をすれば、聴いてはくれるのだろうけど、母さんのほうからあれこれ訊いてくることはない。
……姉ちゃんと僕はそういうわけで母さんにあんまり自分から話をしないけど、海はちょっと性格が違って、いつも母さんに聴いて聴いてと学校の話をしているのを見かける。まあ、海は母さんだけではなく、姉ちゃんにも同様、あれこれ話しているが。
ただ、いろいろ干渉してはこないけど、でも同時に子どもたちのことを気にしているのも、すごくよくわかる。というよりか、歳を重ねるごとにだんだん僕はそのことに気がついてきた。
母さんは、姉ちゃんが無愛想でぶっきらぼうなことを、気にしているようだ。海がちょっとわがままで、悪い意味での末っ子らしさ全開なことを、気にしているようだ。そして、僕があまり他人とよい関係を築かないようなことも――気にしているようだ。
たぶんだけど、母さんは、僕に明るくなってほしいと思ってるんだと思う。あるいは、友達のひとりでもいてほしいと。……僕だってべつに、やぶさかではない。友達をぜったいにつくらないとか、決めていたわけではない。
ただ……いままで出会ってきた学校のやつらが、あんまりにも、くだらなくて、ときには気持ち悪かっただけだ。だから、こうして研究者志望クラスというところでいろいろ賭けようと思っていたのに――。
……そういうことを、もちろん、今回も僕は母さんに言いはしなかった。
母さんは、朝ごはんを出すときにも、僕が食べているときにも、僕を送り出すときにも、なにか問いたそうな目をしていた。それは笑顔にとても似ていて紛らわしく、たぶんまだ中学生の海にはわからないことなんだろうけれど、僕と、たぶん姉ちゃんはもうそういうのが読み取れるのだった。
でも、姉ちゃんと僕の違うところは、僕はそういうのを拾わないこと。
姉ちゃんは母さんの小さなサインのような気がつくと、不器用ながらもなにかフォローするような発言をしているのだけれど、僕は、しない――僕は男子だし、家族に対してさえ、コミュニケーションは得意じゃないし、……面倒なんだ、そう、面倒、心配してくれることはありがたいけれど、僕だってもう子どもじゃないんだ――面倒だって、思ってしまうんだよ。
「いってらっしゃい」
玄関口で、だからいま、母さんはそんな顔をしている。
なにか、言おうかと思った――でも口を開きかけたとき、玄関の棚の上に置かれた金網製の鷲のオブジェ、……それは、父さんが仕事で表彰されたときの、マイナーだけれど社会評価のがっちりしたお堅い賞の、トロフィーだった、それが目に入ってなぜか僕は急に唐突に自分でもわからないんだけれどなんでかどうしてか――ぴしゃっ、と、母さんに対して、心を閉ざしたくなった、……ああ心を閉じるところさえじっさいにビジュアリィに見せつけられたらいいのに、だなんて妙なことを思うくらい。
「……いって」
きます、まで、言葉にならなかった。言葉になる前に、……僕はスッと母さんに背を向けて、玄関を通り抜けて、ドアの外に滑り込んでしまったからだ、あとは、……そのまま、駆け出した。どうしようもなく――母さんの子どもとして自分を後悔しつつ、でも、でも、……いまから僕は、またあの研究者志望クラスの一員になるのだ。そんな自分に――チェンジしていかなくてはならない、この社会共通の、当たり前の、でもうっとうしいそんな社会性のこと。
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