いつも通りの

 その夜、僕は。



 和歌山のわけのわからない呼び出しを、どうにかクリアしたあと。

 家に帰って、あくまでいつも通りに、すくなくとも自分では、そのつもりで過ごした。


 二年生になって、夕方の時間は余裕ができた。一般クラスだった一年生のときには宿題が出ていた。けれども研究者志望クラスは、というか優秀者のクラスは、宿題というものに無縁だ。やるべきことも自分でわかるという前提だから。とくにほかにやることもなかったので、二階にある自分の部屋のベッドの上でごろごろしながら、いまハマっているソーシャルタイプのコンパクトゲームをプレイしたあと、ちょっと気になっていた新作ゲームをインストールした。

 夜になると、一階のリビングで、いつも通りに食卓を家族で囲んだ。父さんにも母さんにも、姉ちゃんにも海にも、家族のだれに対しても僕は普段通りほとんど意味ある言葉なんか交わさなかったから、自分の内心なんてなんにも漏れ出てはいないだろうなと、けれども、すこし、心配してしまって。メニューはけっこう好きなハンバーグだったけれど、普段よりも味がわからない気がした。

 お風呂に入ったら、あとは自分の時間。夕方同様、自分の部屋にひきこもって、夕方にインストールしたゲームのチュートリアルを、夜の八時までプレイした。夜の八時からは、クローズドネットでちょっと気になっているバーチャルアイドルの、イベント動画が配信されるから、そっちを観た。

 途中で母さんが歯磨きに呼びに来たから、動画はまだまだ盛り上がってるところだったけれど、そのときにはいったんリビングに降りていった。時間は九時過ぎ。わが家はいつも、家族全員で歯磨きをする。寝る準備も家族全員でして、みんなが整ったら、解散、とでもいうかのごとくそれぞれの部屋に入っていくのだ。なんでかは知らないけれど、むかしからそうだ。今日もだからリビングで僕は歯磨きをした。数年前までは、もうちょっと早い時間帯にこの儀式とでもいうべき家庭の習慣がおこなわれていた。海ももう中学二年生だから、こんな時間でもいいのだろう。母さんは子どもの門限や寝る時間にはけっこう厳しくて、子どもが小学生のときには、九時半までにはぜったいに布団に入って電気を消して目をつむるようにと、決めていた。僕も小学校のときまではそうだったし、姉ちゃんもそうだったのだろう。だから海が小学校のときには、海に合わせてこの歯磨きの儀式も九時前であることが多かったわけだが、海ももう中学生なので十時までは起きていていいことになっているのだ。そんなことをぼんやり考えながら、僕は父さんと母さんの寝室の扉とテレビのあいだに立って、歯磨きをしていた。

 家族どうしおやすみと言い合って、こんどこそ部屋にこもる。バーチャルアイドルのイベント動画は盛況で、予定時刻より三十分と少し延長した。だから、終わったときには十時半過ぎ。寝るには、いい時間だ。十一時より遅くまで起きていると、母さんがどかどかとやってきて、寝なさいと言う。これ以上動画配信が延長していなくてよかった、こんないいところで区切られたら、眠るに眠れなかったかもしれない……そんなことを考えながら僕は、明日の学校の持ち物を確認して、連絡事項を頭のなかで確認して、それからまた、持ち物にほんとうに忘れ物がないか確認して、布団にもぐりこんで、あとは――プリーズ、Neco。電気、オフ、と言って、電気をぱっと消した。眠るときには、僕は、……電気をいっさいつけない派なのだ。



 当たり前の。

 ごく当たり前の、ありふれた、いつも通りの過ごしかただった。

 ……明日にも実質的に学校での人権が制限されるだなんて、まるで悪い嘘だったような。

 悪い夢でも、見ていたかのような。



 電気を消したふとんのなかで、ひとりで、意味もなく天井を見つめて。



 そんなこと、ありえないだろって、いまなら笑い飛ばせるような――だからじっさいそうしようとしてみたのに、……どうにも、できない、口の端がこわばる、喉が渇く、すぼまる、なんだ、なんだろう、……やっぱり心臓がばくばくする、だれか、だれかに、……助けてほしい、それはたぶん、いま父さんと母さんの寝室に駆け込めば解決するのかっていうと、……そうではないんだ、もちろん、姉ちゃんも海も違う、じゃあ特定のだれだってわけじゃ、なくて、でも、でも、……助けてほしい、だれでもいい、そうだ、水入先生、小学校のときの名前も忘れてしまった教頭先生。だれでもいい。でも、だれでもよくない。助けてほしい。




 でも、でもわからない――いったいなにから、僕は助かりたいのか。

 僕は、なにから助けてほしいのか。

 僕はどうしてなんでこんなに、なにかを不安に思っているのか、その不安の得体が知れなくて。



 僕は今日――よく眠れそうにないなと思って、頭までふとんに完全にもぐって、あたたかいなかに胎児のように縮こまって、ただクッションを強く抱きしめたのだった、……高二にもなってしかも男子がおかしいと自分でも思うけど、なにかを強く抱くと妙に安心できるから、つねにベッドに置いている細長い無地の深緑色のクッション。もうずいぶんくたびれているし、母さんは当然僕がこうしてベッドにクッションを置いていることに気がづいているはずだけれど、なにも言わない、……なにも言われないうちにやめるべきなのか、なんて思っていると――次第に、うとうとしてきた。うとうと、できた。ああ、よかった、眠れると安心しながら――眠りの波に、僕はそのまま全身を、委ねた。

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