呼び出し
「来栖。あらためて言うぞ」
和歌山は、出席簿を肩のあたりにぞんざいに載せるような動作をして、そのちょっと無精髭の目立つ顎をくいと持ち上げる。
「今日の放課後、私の研究室に来るように。話がある。以上だ」
それだけ言うと和歌山は、もう僕のことなどすっかり興味をなくして視界に入らなくなってしまったみたいに、ホームルームの続きを進めていった。
はい、と僕が返事をする間もなく。
……僕は、なんだか置き場のなくなった気持ちで、ホームルームが終わるまでただ座ってじっとしているほかは、ないのだった。
初夏の教室は、気だるさと、ひとの動きと、各々のちょっとした感情が漏れ出ることで、成り立ってる……と、思う。
和歌山に中断されてしまって、もう雲と夢のことを考える気にもなれない。けれどもいちどだけ見上げると、さっき見ていた雲はもうどこかにいってしまって、あとに残っているのは筋のようななんとも言えない薄っぺらい雲だけ――。
ホームルームが終わった。起立。礼。伝統的な、社会的行為。
僕は、立ったはいいものの。
自分の机の上に置いた学校の指定かばんを、ぼんやりと見下ろしていた。……もう、荷物はすべて詰めて、教室を去る準備はできたはずなんだ。
普段だったら、これでもう、あとはこのかばんを掴んで持ち上げて、背負って。そうしてそのまま帰れるが、今日は違う。和歌山のところに行かなくてはいけない――なんの話だろう、いったいなんの話だろう、……成績表のことを思うと、喉の奥と心の芯がきゅっと縮んだ。
それに、さきほどから――南美川幸奈とその取り巻きたちが、こちらをニヤニヤ見ている。自分の席に座ったまま、ニヤニヤ、ニヤニヤと、……あきらかに意地悪く、僕をたぶん観察しているのだ。ああ――気持ち悪い。
「呼び出されちゃったねえ」
南美川幸奈が、頬杖をついて、こちらを見て言ってきた。……僕もその顔をまっすぐ見返してやる、臆するものか。ここで、舐められては、……いけない。
「やっぱ、成績のことかな」
「まだわかんないだろ」
僕はわざと呆れ果てたような声を出すと、今度こそかばんを掴んで、背負いながら教室の出入り口に向かった――もう、これ以上、妙なトラブルはごめんだ。南美川幸奈に、これ以上絡まれたくない。
しかし、僕の歩みより早く――南美川幸奈は立ち上がり、出入り口を塞いだ。
……両手両足をいっぱいに伸ばして、大の字みたいに。まるで小学生がやるみたいに。南美川幸奈は、物理的に僕の行き先を塞ごうとしている。
僕は、さすがにいらっとした。
「どいて」
「あんた、この状況わかってるわけ?」
僕よりも、頭ひとつぶんくらいは低い位置で。
南美川幸奈は、愉快そうな、それでいて攻撃的な表情で、誇ったように僕を見上げていた。
「……和歌山先生のところに行かなくちゃなんだよ。遊んでいるひまはない」
「ひま?」
南美川幸奈は、甲高い声で僕の言葉をそう繰り返した。
「ねえあんた、やっぱりわかってないんでしょう。劣等者なんだよ? ここの集団の基準を満たしてないんだよ? ねえ、それがどういうことなのか、ねえ、ねえってば、わかる?」
「その話は和歌山先生とする。遅れちゃうから、通して」
「ねーえっ、わたしの質問にさー、答えてないじゃーん、ねえってばー」
「……ああもう」
空いているほうの手で、髪を、掻きむしった。……うるさい、と怒鳴りたくなるのを、かろうじて堪えた。
「……とにかく、通して」
「あんたさあ。いまはまだ、成績が確定してないからって、考えるのやめてるみたいだけどさ」
南美川幸奈は、不敵な視線で僕を見上げていた。
「もし、確定したら――あんたはこの教室では人権はないんだからね。奴隷とおなじよ。そうなったら、わたしがかわいがってあげるわ、……どうしたいかって、考えといてね?」
……返事をするのも、面倒くさい。くだらない。
南美川幸奈が大の字をやめて、腕組みをして脇に寄ったらすぐに――僕は大きく足を踏み出し教室から出て、廊下を走った、……注意されても走りやまないつもりだったけれど、注意してくる人間とは、ひとりも出くわさないのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます