その日の放課後。

 ホームルーム。


 現代社会の価値観に染まりきっていることだけが取り柄の、ほかになんにもおもしろみのない、中年男性の教師のあくびの出るような連絡事項と話を、適当に聞き流しながら。

 僕は、頬杖をついて空を見ていた。

 ……晴れわたっていたさっきと違って、ちょっと雲が出てきたようだ。もくもく、と形容するのがふさわしいようなそれらの雲は、青空というキャンパスを、塗っていく埋めていく――。



「……えー、それでなあ、来栖」


 雲は、どうしてあらわれるのだろうか。いったいどこから、来るのだろうか?

 もちろん、伝統的研究において、それらが水蒸気のかたまりであり、水のこごったものである――という前提知識は、中学までで習った。でも、ほんとうにそうなのか? たとえば、世のなかのすべてのものには、なんらか意味と価値がある。意味と価値のあるものだけが社会に残り、そうでないものは、廃棄されていくからだ。そういう意味ではいまの社会は旧時代と違って、まだ合理的なシステムで動いているといえるだろう。


「おーい、来栖」


 だとしたら、この世界もそうであると当てはめることはできないだろうか。雲は、どうして存在するのか? その、意味と、価値は? 意味のないもの、価値のないものなんて、この社会においてみたいに、ほんらいは存在しえないはずなのだから。

 ああ、こういうのを研究テーマにしたっていいのかもしれない。雲の、意味と価値。どうだろう、おもしろそうじゃないか。われながら、なかなかユニークな観点だと思うし。稀少性も、確保できるかもしれない。

 そう、そうだ、僕は研究者になる、なるんだ。それだったらなにかひとつ、研究テーマをもっていなくちゃいけない。もちろんその作業は、この研究者志望クラスでもこれから二年かけてやっていくのだろうけど、自分で考えておくことだって、少なからず必要だろう。うん、いいんじゃないか? 雲の、意味と価値。雲の、意味と価値――。


「おい! 来栖春!」


 唐突に大声がして、はっと僕は思考から引きずり出された。

 担任の和歌山わかやまが、出席簿を片手に、その陰気な目をこっちに向けてきている。気がつけば、クラスの注目全体が僕に集まってきている。


「さっきから呼んでたんだぞ。それを、なんだあ、ぼうっとして。雲がなんのかたちかなーなんて、ちっちゃな女の子みたいなことすんなよな、ははっ」


 和歌山は、自分で言って自分で笑った。ちっちゃな女の子、とたとえたことが、自分で自分のツボに入ったようだ。和歌山には、そういうところがある。よく、おもしろくもないことを、さぞすごいことを思いついたとでもいうかのように言い放ち、おもしろいだろうと威張るばかりに周囲を見渡す。

 ……じっさい、なんにもおもしろくないし、いまのたとえのどこかおもしろいのか、ほんとにさっぱり一ミリもわからない。だいたい、雲のかたちをたとえるのが小さな女の子だけというのは――典型的な、偏見バイアスなんじゃないか?


 僕は、この教師が嫌いだった。

 教師というのは、収入はさほどでもないが、社会評価ポイントを多く稼げる人気の職業だ。それに、ほかの一般的な職業と違って、長く勤めれば勤めるほど、収入もだんだん社会評価ポイントの基準に追いついていくという特徴ももつ。人生設計をするときに、じつに合理的な職業のひとつだ。

 和歌山は教育大学を出てすぐに教師になったのだと、最初のホームルームでも威張って言っていた。どう見積もっても中年だから、すでにそれなりの年数勤めていて、収入も社会評価ポイントも溜め込んでいると見える。

 ……僕はそういうおとなにだけはなりたくなかった。

 この社会で、一定の立場と評価を得て、そこにあぐらをかいて安心しきっているような、そんな、そんな鈍いおとなだけには。



 ある意味では、おとなにも同情の余地があるのだとは思う。

 けっきょくこの世のなかは、収入と社会評価ポイント、どちらもそれなりに得てかないと、人権さえもないのだ。……でも。




 僕は、雲を見上げるようないまの気持ちをだいじにしたいと思う。たとえ世のなかのすべてのおとながもうそういう気持ちなど忘れてしまっても、……僕は、夢というものを、だいじにしたい。雲を見て、研究したいと、そういうのが若さの特権であるならば――僕は、個人ではなく、若さという概念にこそ、社会評価ポイントを付与してあげたいくらいだよ。もちろん、……そんな制度は、現行の制度においては、ありはしないけれど。

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