和歌山の部屋
そのまま、早足で。教室が離れていくにつれ、やがて、……疲れてしまって歩く速度で。
僕は、和歌山の研究室に向かった。
教師は、小中高においても、職員室のほかに自身の研究室をもつことになっている。
現代では、遺伝子操作や能力開発技術の影響で、幼少時からおとな基準で見ても能力の高い子どもも珍しくない。そういう優秀者のたまごをしっかり見つけて、確保して、育てていくために、教師は自身の教科の大学以上レベルの研究も、義務づけられている。そういう作業をするために、研究室があてがわれているのだ。研究は成果だ、と教師たちはたびたび言う。たしかに、職員室みたいに剥き出しだったら、その成果とやらがすぐに他人にとられてしまうことだろう。
それに、教師自身の立場の価値ということもある。つまり、教師というのは社会においてけっこう価値ある立場なのだから、それ相応のプライバシーの権利や施設利用の特権がある、ということだ。だから教師ひとりひとりに、研究室ということで各々の、けっこうスペース豊富な自由な空間が与えられるわけだ。生徒にかんして言えば、よっぽど飛び抜けて優秀なやつは例外として、ふつうの生徒がそんな場所を与えられるわけもない――僕たち生徒には基本的に、自由な空間という権利がないのだ。それもまた、……未成年、という名の人権制限者の、制限されたことのひとつなのだけれど。
和歌山の研究室は、特別棟の奥、ひっそりとした、湿ったところにある。
ここまで来ると、ほとんどひとが通らない。ほかにあるものといえば、文化部の物置や空き部屋くらいだからだ。教師を訪ねてくるほかは、放課後になって部活をはじめるのだろう文化部の生徒たちが荷物を取りに来ているくらいで、僕はそういう生徒たちとすれ違いながらただただ和歌山の研究室を目指した。……めちゃくちゃ、とまでは言わないけれど、だいぶ、やはり、距離がある。
学校の隅っこにひきこもった、みたいな場所にあるんだものな。
たいていの教師の研究室は、もうちょっとましなところにある。職員室のそばとか、日当たりのいいところとか。
だいたい好きで特別棟に研究室をかまえるかというと、それは微妙だろう。特別棟はとにかく条件が悪い。静かすぎて湿っているというのもそうだし、この距離だと、いちいち生徒の教室や職員室に向かうときも、面倒だと思う。おなじ校舎内なのに、片道プラス五分ほど歩かなければならない。
五分という数字だけ考えれば、たいしたことはなさそうだけど、でも実際は一日にそれをなんどもなんども繰り返すのだから、トータルで見たらけっこうな時間だ。だいたい、たかだか五分といったって、その五分の道のりをこうして歩くだけで、すでに遠い、と思いはじめている僕がいる。
和歌山の研究室に入るのは、僕ははじめてだった。
その中身を見てみないと、なんとも言えないけれど。でも。
……和歌山は、あまり優秀ではない可能性が高いのではないかと、教室でささやかれる。
そういう噂話のたぐいはくだらないと思うほうの僕だけれど、でもその仮説を聞いたときには、賛成、と心のなかでつぶやいたのだった。
条件が悪くて、距離も遠いところに研究室が与えられるのは、本人がよっぽど希望したのでなければ――本人の能力ゆえ、だ。和歌山はよくわからないところで自信満々の教師だし、みずから希望するとは考えにくい。
と、すれば、やはり能力の問題、それなら――そう考えながら僕は立ち止まった、目的地に来たからだ。特別棟の三階、薄暗い廊下、ほかにひとはいない。……銀色の金属の扉に、和歌山、と神経質な尖った細い字、しかも鉛筆で書かれたネームプレートが、ぶらさげられていた。
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