心の極度の疲労によって
教えられない。それは、あなたにも。
僕は、そう思って、黙り込んだ。
と、いうよりは、……もう限界だったのだと思う。
言葉を、発することが。説明することが。南美川さんという存在に対してさえ、もうなにかを説明してわかってもらってそれに対して応答があるという、そういうふつうの、ごく当たり前のまともなコミュニケーションが、僕はもう、……限界だったのだ。
僕は、体育座りで。
そのなかに、顔をうずめたままだったけれど。
南美川さんは、しばらく僕の身体に密着していた。
あの手この手を使って、僕の気を引こうとしているようだった。
僕は石のように固まっているつもりだったけれど。感覚は、外にいるということにもかかわらず、残酷なほどに鋭敏だった――南美川さんの動く気配が、犬のところと人間のままのところが、吐く息が、肉球でなにか求めてくることが、僕の耳やら髪やらを噛んで反応を引き出そうとしてくることが、肉球で素肌を挟むことが、おなかやらいろんなところを絶妙に動かすことが、たまに押しつけてくる鼻もとが――そういうのをぜんぶ僕はほんとうはひとつひとつの動きに対して細胞ぜんぶで、感じていた。
だから余計に動けなくなったのかもしれない。
早く、一刻も早く終わってくれと……でもこれがずっと続いたら、僕はどうなってしまうんだろうと。そんなぐちゃぐちゃな気持ちで、どろどろな気持ちで、……僕はもっと僕のことを嫌いになりながら、そんな、そんなふうにこのひとのいまもっているおこなっているすべてのことを感じていて――どれだけの時間が、そこまでに、必要だったのだろうか。
ふいに、気配が離れた。
諦めたような、吐息。
……南美川さんの唾液の音がした。舌なめずりでも、したのだろうか。
「……こんなに犬らしくしても、だめなのかしら」
切なそうに言う言葉に、なにが――と返す余裕は、だから、いまはない。
「ねえ、シュン。わたし、どうすればいいのかしら……わたしね、違うの。あなたの気持ちは、嬉しいの。嬉しいのよ。でもわたし、こうも思うの。あなたがいてくれれば、このままでもって。人犬のままでもって」
「……やめよう」
僕は、その言葉を、体育座りに顔をうずめたまま、だからくぐもった声で言った。
「すこし、休まないか。あなたも、疲れたんじゃないかと思うんだけど」
「……でも」
「犬らしいことを、してくれるというなら」
僕の声は、やっぱり、とてもくぐもっている。
「隣に来て。……できれば、右に」
すこしの、沈黙。
まるで戸惑いのような。
……でもすぐに気配がした。
動いた、気配だ。落ち葉をさくさく踏みしめて、すぐに……僕の右隣に、そのひとが来た気配があった。
立っていたって四つん這いだから、僕がしゃがみ込んでいるのとほとんどおなじ高さで――。
「伏せて」
南美川さんは、素直にそうしたようだった。顔など上げなくても、落ち葉の音、あたたかい気配、……その息づかいで、わかる。
僕は、右手を、そのひとの背中に置いた。
……相変わらず、つるりとしている。人間の、素肌だ。あのときのままの――。
「……なにも言わないでくれると、嬉しい」
僕はそのひとの背中を、ひと撫で、ふた撫でした。
「僕は、諦めたわけじゃないんだよ。やめるわけでもない。やることは、やるさ、……もう乗ってしまった船なんだから。でも、……ちょっと、休みたいから。それだけだから」
なにひとつ、ろくに説明になっていないという自覚があったのに――南美川さんは優しい沈黙をもってして、僕の言うそんなことを受け入れてくれたようだった。
「それだけだから……」
僕は、南美川さんの背中を撫で続けた。
ひとのくる気配は、相変わらず、ない。
あの騒ぎが、あのあとどうなってるかは、わからないけれど。
……すくなくともここは、平穏だ。
静かで――。
……すこし、このまま、眠ってしまってもいいと思った。
うん、そうだ、いや、……そうしよう。
どうせ、今日も夜中にはやるべきことがある。
というかどちらかというと、僕がいまこの状況において、メインでやるべきことはそちらなのだ。
昼間の時間は、変な話、うまくやり過ごせばいい。夜中のほんとうの目的が達せられれば、この状況だって、あるいは動かせるかもしれないのだから。うん、そっちの可能性のほうがずっと高い。だから。だから、だから、だから――いまは、いまだけは、眠ってしまってもいいんじゃないか。
僕ひとりの世界に落ちたって、いいんじゃないか――。
まったく、ひどい言いわけだ。頭のなかで、僕が嗤った。けれども僕は、止められなかった。止まらなかったのだ。身体の疲労はとれて、心は一瞬元気になった気がしても、それは錯覚だった。僕はとにかくいまひとりになりたいという理由だけでこんなに睡眠を欲する――ありとあらゆる、弱い気持ちを、もってして。
そして、雑木林の奥の、小さなカプセルみたいなこの空間で。
睡眠は、僕に訪れた。
眠りの直前、僕が思ったのは――もうなにも考えたくない、ということだった。ただ、……それだけ、だった。
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