教えられない

「……わからないんだ。いまでも。夢みたいなんだ」


 僕は気がついたら、そんなほんとうの気持ちを吐露していた。

 そんな、素直な言葉で。


「あなたが、いるということ。僕のプライベートなところに存在しているということ……信じられないんだ。毎朝、あなたがすぐそばにいるだろう、いつも、……夢みたいだなって、思ってる」

「……ふふ、それは、……わたしが人犬だからよね、きっと」

「どうして」

「人犬って、そういう存在だもの。ペット、ってことだもの。……そのひとのプライベートなところにずっと存在するのだわ、ずっと、ずうっと」


 後半の言葉を、南美川さんはまるで――歌うみたいに、言った。

 明るい言いかたなのに、いやだからこそだろうが、……やけに切なく響く調子で。


「いや、……でもさ。あなたは人間だ。あなたは」

「違うわ」


 南美川さんは、静かに首を横に振った。


「人犬よ」

「……いや、だから」

「あのね、シュン。あなたとわたしはたまたまね、高校のときにいっしょで、あなたは高校のときのわたしを、そうね、……けっこう知ってしまっているから、わたしのことが人間に見えるのよね。それはわかる。でもね」


 ……でもね、と言うとき、南美川さんは小さくため息をつくかのように。


「わたしは、人犬なのよ。もう、人間ではないの。……人間でなくされてしまったの」

「だから、僕は、それを」

「どうにかする、って言いたいんでしょう。……でも、どうして?」


 そこに苛立ちや疑問といった、鋭くひとにぶつけるようなものは、なにもなかった。

 南美川さんはただ、僕を見つめているのだった、問いかけるかのように。いやそれよりももっと、穏やかに。当たり前のことを、当たり前でしょうと言うときのごとく――。


「わたしは人間ではなくてもう人犬で、わたしはそれを、……受け入れているの。それなのにあなたは、……わたしを人間に戻すと言うわ。それで、いろんな冒険を、無理を、してきている。……いまだって、そうなのでしょう。だからあなたは焦っている。どうにかしなくちゃと、思っている……ネネさんと約束したからでしょう。わたしの身体を、もとに戻すために」


 僕は、気まずくうなずいた。南美川さんは、どうしていま、このタイミングで、そんなことを、……急に言い出すのだろうか。


「ねえ、でも、どうしてだめなの」

「……どうしてって、なにが」

「わたしが、人犬のままでは、いけないの?」



 それは、僕にとって予想だにしない言葉だった。

 この、状況で。そのために、ずっとやってきて。もはや。……そのことは、自明なんだと思っていたから。

 説明するまでもなく。共有、するまでもなく――。



「……いけないとか、いい、とかじゃなくてさ。だって、あなたは、……人間じゃないか」

「ちがうの。だからね、わたしは人犬なんだってば。……わんわん」



 南美川さんはわざとらしくそんなことを言うと、三角の耳をぴこぴこ動かして、肉球を僕の膝に乗せて、僕の、……体育座りの狭い狭い空間に、無理やり入り込んできたのだった。



 僕は、すこしだけ視線をあげた。

 それだけで、間近だ。

 どんぐりのようなふたつの瞳が、くりくりとして、僕をじっと見つめている――。



「……ねえ。とっても、犬らしいでしょう? わたし、がんばって、犬になったんだから。だから」

「……やめて、ほしい。近いし」


 僕は、うつむいた。


「僕は、そんなことを言われても……わからない」

「あなたがわたしのことがずっと人間に見えてつらいというなら、わたしは人間の言葉でしゃべらないことも、できるのよ。……わたし、ずっと、調教のときはそうしてきたのだもの。犬の言葉だって、しゃべれるもの。ずっと一生わんわんしか言わないことだって、できるのよ、あなたが望むならば――」

「やめてくれないか」



 自分でも驚くくらい、感情的な声が出た。……その響きで、僕は自覚よりも先に自分自身がだいぶもう限界がきてしまっていたのだということに、気がついた。



「僕は、そんなことは望まないし、あなたは人間だ。……それ以上のことをもう言わないでほしいんだ」

「ねえ、だから、どうして……?」



 南美川さんが、全身で寄ってくる。まるで僕の体育座りに、そのまま山登りでもしてくるかのように。……犬の部分もあるけれど、人間のままの素肌も、僕の服越しに伝わってきて、なんというか、よろしくない、非常によろしくない、でも――南美川さんは、獣のように寄ってくることを躊躇しない。いや、彼女の言いぶんをあくまで受け入れるのであれば、犬は人犬であっても犬、……つまりは獣と、いうことなんだろうけれど。



「あなたは、どうして、わたしを人間に戻そうって思うの? そんなに、かたくなに。こんなことになってまで……あなたがずっとそのことばっかにこだわって、頭がいっぱいなの、わたし、わかるの」




 それは――南美川さん本人に対してだって、教えられない。

 教えられないのだ。この世の、……だれにも。

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