命にかかわる地獄
……ともかく。
葉隠さんはあまり力がないはずだ。それに、極度の疲労状態のはず。
ここにいるひとたちはそうだ、……雑木林の奥で蜂蜜みたいに水晶みたいに、吸い取られるかのように疲れがなくなった僕たちとは、違って、みな極度の疲労状態のはずなのだ。昨日から急に、公園から出られなくなって、閉じ込められて、外部とも連絡がつかなくなって。もちろんそれだけではない。そのあとの、この世界のおそるべき異変――。
そんななかでぐったりとしていたんだ、だれしもが。だからみなこうして池に投げ込まれるというリスクを冒してでも、疲労を取られたがったんだ。そのうえで、賭けだか、彼の審判だか、知らないけれど、こうしてここでなかば溺れる羽目になった。
なにかを、うまく狙われたとしか思えない。司祭、いや、……この世界のほんとうの真犯人に。
見ると。
葉隠さんは、必死に子どもに近づいていっていた。
もがくように、泳いで、泳いで。両手を動かす。長く、必死に。
ああいうのはストロークというんだっけなんて僕はなんにも関係ないことをぼんやりと思っていた。高校の授業で習ったのだった。僕は水泳なんてもちろん、……高校以来、やっていない。そもそも肌さえもう外には見せないのだから――僕は、気持ちが悪いのだから。
「溺れるんじゃないか!」
たしかに。
たしかに、葉隠さんの泳ぎは、不安定だった。
……というかすでに溺れているようにも見える。
泳ぎ、もがき――しかも着衣のままなのだ。
この寒さ。極度の疲労。冷たい水を吸って、重たいであろう服。
子どものほうに、近づいてはいるものの。
……失敗することは充分に考えられた。
そうしてここでいう失敗とはすなわち命にかかわる――。
……なんだか。
実感が、出なかった。いま、この期に及んでも。
だって。
普段の生活で、命にかかわることなど、まずない。
……あえて言えば僕は高校時代にすこしそれを、経験した。でもそれは非常事態だ。以上事態だ。
現代の、Necoインフラにきちんと管理された世界は――ほんらいは、命にかかわることんどめったに起こらない。事故が起こらないように日常生活がNecoに見られ、病気が起こらないようにNecoがつねに声かけをし、災害が起こらないように世界的な人工知能たちはいつも話し合って、絶対安全といえる均衡を保っている。もちろん、Necoも世界的な人工知能たちの話し合いにいつも参加しているのだ。そうしてNeco圏の社会を守っているのだ。
だから、たとえば、普段だったら。
過度の疲労状態にあるひとたちは、すぐに休養を命じられて自宅待機になるはずだし。家が遠いとかの理由で自宅に帰れないのならば、社会人慰安場にでも行って、すこしうさを晴らせばいい。
命にかかわるような行為なんてNecoが許さないだろう。すぐに公安センターに通知がいって、そのような行為をしている人間は保護される。そのあとは手厚くケアされるのだ。事情、背景、そういったものごとを社会カウンセラーをはじめとするプロフェッショナルや、公安警察が丁寧に調べて、公正な判断をする――と、されている。
Necoは、人間たちをだいじにしているのだ、とてもだいじにしているのだ。それは、人間未満あっての人間なんだということは――僕はほんとうのところ、南美川さんにこうして出会ってから、はじめて知ったのだけれども。
……ただ、まあ。
抜け道は、あるのだろう。なんだって。どういうことだって。……この社会では絶対的なものだとされている、Necoインフラだって。
思い返してみれば、僕だってそうだった。
気づいてしまえばどうして気づかなかったのだろうと思うくらいに。
南美川さんたちがすごいのだと思っていた、あのときは。Necoインフラの管理や監視を、うまいことくぐり抜ける。そんなことができるなんて、よっぽどなにか技術や知見があるのだと、いつも、変なところで関心していた。
……その結果、地獄ができあがったのだ。僕の場合は、命にかかわることはなかったが、人間としてのなんというか――尊厳、みたいなものにかかわる、そんな地獄だった。
……だから。
そうやって考えていけば、たしかに、命にかかわるこういった状況だって、生み出すことが可能なのだろう。だれかが、なにかの、はっきりとした、かつ強すぎる意図をもつならば。かつ、抜きん出た技術や知見や、なにかをもつならば。
いまさらだけれどこの世界の真犯人たちは南美川さんの弟と妹だ。南美川さんも、Necoの管理をくぐり抜けることができた。だったら弟と妹にもできるのかななんて、……あまりに、発想が短絡的だろうか。
地獄を、生み出すことができるのだ――Necoの光の当たらない場所さえつくり出してしまえば、こうやって、……命にかかわる地獄さえ。
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