だれか

 そうして、僕は結果的に池に溺れたひとたちを助けるのに、手を貸すことになった。

 冷たい池から上がったひとたちは、全身を震わせながらも、意識もあって命には別状なさそうだった。

 最後に池に残されたひとたちはあとわずか数人となった。

 このまま助かるんだろうと思った。

 このまま。順調に――。



「ねえ、あの子ども、沈んじゃうんじゃないの!」



 だれか、女性の声がキンと響きわたった。

 ほんとうだ、とだれか男性が言った。

 ねえあそこ、と若い女性が指さして、あとの人間はいっせいにそちらを見た。




 子どもが、溺れていた。

 岸とはちょっと離れたところで。いまここから手を差し伸べても、とても助からないだろうというところで。

 頭は浮き沈みして、顔は水のあいだに、出たり、隠れたり。まるで冗談みたいで嘘みたいで僕は、……浮き輪でも見ているのではないかと、はりぼてみたいに、そう思う。



「助けないと!」

「溺れちゃう、死んじゃう」

「まだあんな小さい子が!」

「だれか、だれか行ってよっ。私はもう無理よ。いま自分が溺れようとしてたんだから!」

「そんなのみんないっしょだろう!」

「そうだそうだ、俺たちみんな溺れかけた」

「じゃあだれが行くっていうの!」

「だれか、だれか行ってよ!」

「だれか! 早く!」

「だからだれかってだれ――」




 そのとき、彼女は静かに落ちた。

 彼女は、飛び込んだつもりだったのかもしれない。でも僕には、……静かに、水のなかに身投げしたかのようにさえ、見えたのだ。




 彼女とは、葉隠さんのことだ。




 これまでも。

 岸までたどりついただれかが、求めるように、いやじっさいに助けを求めて腕ごと手を伸ばした。葉隠さんは、それに応じるように手を伸ばした。その必死な形相のだれかは男か女かも老いているのか若いのかもわからなかったけれど、むくんでいるのか溺れているといういまこの状況が関係あるのかないのか、顔がパンパンに膨れていて、表情も魚のフグのデフォルメイラストのようにひとを睨みつけて憚らないような表情だった。

 葉隠さんはそんなひとを前にしてもまったく躊躇しないようだった。嫌悪も、軽蔑も、ここでは彼女にとってどうやら意味をなさないようなのだ。溺れる、という極限状態。人間はすぐに本性が剥き出しになる。そんなときにその人間がどんなに、自分勝手でも、醜悪でも、エゴイストでも、余り余って他人のことさえ傷つけようとしても藁をも掴むように身体の一部分を掴んでもはや沈めようとしても、葉隠さんは、どうやら気にならないようなのだった――助けるあいだじゅう僕は不思議だった。南美川さんをあんなにも憎んだ女性はいま、……他人のどんな振る舞いに対しても、こんなに寛容じゃないか、って。


 そんな葉隠さんに溺れているひとたちが次々とすがりついたのは、たしかだ。その行動力に対して、葉隠さんは力が弱い。僕が思わず手を貸してしまったほどに。

 葉隠さんはそんななかでもハキハキとしていた。ひとりひとりを、充分に助けようとしていた。自分の髪が濡れても、腕が冷たさと他人から掴まれることによる強さで真っ赤になっても、笑顔を絶やそうとしなかった――正確には笑顔らしきその表情はだんだんくたびれてはきたけれど、……すくなくとも笑おうとしていた、他人を安心させるためにだろうか――。



 不可解な、……ひとだ。

 僕がこっそりため息を吐くようにそう思っていたのは、だから、油断だったのだろう。


 葉隠さんがここにいれば状況はどうにかなるのだと。

 葉隠さんという人間ひとりさえここにいれば、こんな極限状態でさえ、きっとどうにかなるのだろうと――思い込んでしまったことがたぶん、そもそも、僕の油断だったのだと思う。……ひとりの人間に、すべてを帰しすぎた。ひとりの人間を、人間としてある意味では認めすぎた――。



 ひとが、溺れるときには。

 ぼちゃんとかぼとんとか、とにかくなにか大袈裟な音を立てるものだと、思っていた。せいぜいいま鳴った音は小石が投げ入れられた程度の、ぽとん、という控えめな音だった。

 でも僕は幸いというかなんというか、その後ろに立って葉隠さんがひとびとを引き上げるサポートをしていた。だから、すぐに気がついた。



 だからこの場にいるみながすぐには気づかなかった。

 だれか、だれかとやいのやいの言い合っているあいだに。

 だれか、が、あらわれたのだということに。




 振り向けば、ひとびとはほっとした顔で泳ごうとする葉隠さんのびしょびしょの背中を見つめていた――次にこの人間たちが言い出すことは、わかってる。よかったね、ありがたい、さすが、あのひとが自分たちを助けてくれた……そんなことをまたしても、やいのやいのやいの言い出すのだ。

 そうだおそらく、期待していたのだ、この場はすべて、あの人間が、彼女が、……葉隠さんが、そうして動き出すことを。お互いに罪をなすりつけるようなお互いになじりあうような、そんな野次を飛ばしながら彼らの胸にあったのはたぶん、――自分たちのことさえ溺れかけたことから助けてくれたあの人間が、葉隠雪乃が、……子どものことも助けてくれる、ということで……でも。




 でも――でも。

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