わかっては、いる

 たぶん僕が行かなくてはならないのだろう。

 そのことならばよくわかった。


 この状況で飛び出していくべきは僕だ。

 客観的に見ても、ただ、言葉を飛ばすだけの、あるいは、眺めているだけのここにいるひとたちでは、ないし。

 主観的に見たらもっと、だ。なにせ僕はじつはここにいるひとたちとは違い、疲労が取れているのだ。もちろん、そのあとにまたいろいろあって、疲れたという事実はある。けれどもそれはもともと疲れていたうえに、その疲れをとにかく取りたくてあの得体の知れないサクリィとやらに挑戦したのに、ほんとうに、そのうえで、真冬の冷たい池に突き落とされたひとたちとは――もちろん、比べものにならないはずだ。


 だからいちばん僕がそうするべきだ。わかっていた。僕がいまやるべきことは、周りの視線なんて内心なんてなんにも感じていないかのように、いっそなにも考えてもいないかのように、思いきり全身でこの池のなかに飛び込んで、泳いで、果敢に、とまではいかなくてもとりあえず差し当たってあの女性とその女性の助けようとしている子どもを、助けることだ――わかっている、わかっている、そんなのはわかっているとおまじないのように心のなかで二回、三回、……口のなかでもひとに勘づかれない程度にいちど、つぶやいた。



 わかっているのに――。



 鈴が、鋭く鳴った。

 リードが、大きくたわむように動いた気配があった。


 見下ろすと、南美川さんは僕の脚にすがりつくかのように、前足を伸ばしているのだった。

 犬がまるで人間にエサをおねだりするかのような姿勢。

 でも、もちろん、その意図は感情はまったくもってエサをおねだり、なんてものではないだろう――もっと真剣で、人間的で、……急を要する感情だ。




 わかっている。わかっているんだよ。わかっているんだってば、だから。だから――いったい僕はだれに言いわけをしているのだろうか。だれに、なにを、こうして、……いったい。



「……怖いよ」



 ここにはほかのひとたちもいるのだということすら忘れて、いや、もっと正確に言うのならばどうでもよくて、僕は気がついたらいつも通りに、南美川さんに語りかけていた。



 南美川さんが、僕の脚を撫でるかのように、その肉球の爪でひっかく。その顔は、問いかけでいっぱいだ。ねえ、シュン。あのね、シュン。わたし、こう思うのよ。わたしはね、こうしたほうが、いいと思うのよ……そういった言葉たちが声で聞かなくたって聞こえてくるかのようだった、南美川さんの意思として。わかってる、もちろんわかっている、……ひとが溺れかけているんだ、助けるのにいちばん適任なのは僕なんだ、わかっている、わかっているんだよ。




 だからわかっているって言ってるだろう――僕は頭を抱えて叫び出してしまいたい気持ちだった。




「怖いんだ」



 それでもなお、僕はおなじことを繰り返した。南美川さんは困り顔で首をかしげる。なにかを言いたそうに僕の脚を引っ掻いたので、僕は、……しゃがみ込んでこのひとの言葉を聞いてあげるべきなんだろうなとわかりつつも、でも、そのまま立ち尽くしていた。




 池を、まっすぐ見る。ぼんやりと。

 ああ、たしかに、……あのまま溺れそうだ。




 僕の、本音は。

 ……ただ、わずらわしい。

 わずらわしいんだ、ということ。



 ああ。もう。ほんとうに。わずらわしい。Neco、どうして動いてくれないんだよ。どうしてこの世界に存在してくれていないんだ。どうして……ほんらいならばこんなこと、Necoが、すべて、ちゃちゃっと、やってくれる、はずなのに、そういう社会のはずなのに、……だから僕たちはNecoのつくる社会に合意して暮らしているってことになっていたのに。



 嫌だ。嫌なんだよ。怖いんだよ。他人に、僕はそこまで介入したくない。溺れた人間を助けるだなんて。ヒーローみたいに助けるだなんて。


 冷たい水に溺れる僕よりも物理的に力の弱い人間たちは、僕が往けば、僕の身体にすがりついてくることだろう。僕の身体をさわることなんてこの際なにも気にせずしがみついてくることだろう。僕の衣服はもしかしたら一部が破け、肌が一部露出されてしまうかもしれない。高校時代からずっと、かたくなに覆い隠し続けている、僕の醜い表面が。


 女性も、子どもも、それぞれその深度やら真意やらは異なるかもしれないが、でも、僕に感謝するだろう。子どものほうなんて、もしかしたら、あるいは人生レベルで。この状況からもし生還できたら、一生、語り継ぐのかもしれない。自分は、来栖春という人間のおかげでいまも生きることができているんですだなんて、なかば照れた顔をしながら――。




 だから、そんなの、御免なんだよ。

 かかわりたくないんだ。ひとと。表面が、ちょっと擦れ合うのだって嫌なんだ。怖い、怖いんだ。わずらわしいんだ、人間関係なんて、ほんとうはすべてが。なのにそれなのにどうして僕が、……溺れているひとを助けるだなんて、そこまでのことを、しなくちゃいけない?

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