助けると
葉隠さんは、そこに立っていた。
ただ立っていただけだったのだ。
司祭たちと、そして彼女の友人ふたりが消えたところを。
葉隠さんは、見据えているようだった。
……見えなくはなったけれど、そこに存在しているだろう、いや、……ほんとうのところはわからないけれど司祭の言うことをそのまま受け取るのであればいまそこで、見えない旅館で楽しく癒されているのであろう、そんな、空虚な場所を。
憮然としているように思えた。僕はなにか話しかけねばいけないと思った。なにか、なにかを言わなくてはならないと。でも、なにを? ほんとうのところ、僕がこのひとに、……この人間にかけるべき言葉などなにひとつとして持ち合わせていないというのに。
……そもそも、呼びかけることさえできなかった。
呼びかけることさえできなかったのだ僕は。
葉隠さん、とその名を呼んで。この人間がこちらを振り返ることさえほんとうは僕は、……僕は、こんなにも煩わしくて。
だから、虚しい沈黙が続いた。
じっさいにはどれくらいの時間、それは続いていたのだろう。溺れていたひとたちがもがく音が聞こえる。ああそっちもどうにかしなくちゃと思いながら僕は、でもやっぱりでくのぼうのように突っ立っていた。ひとが溺れている、目の前のひとは怖い雰囲気で立っている。それらに対してなにひとつできない時間、できなかった時間は、時間単位に換算すれば一分間もなかったのだと僕は思いたいけれど――。
「……行く」
葉隠さんはこちらを見もしないで宣言して、ひらりと身体を翻そうとした。反射的に僕は、自分でも信じられないことに、……身体をもう半分以上傾けたこの女性の腕を掴んでいた、リードを手首に巻きつけていない左手のほうに、どうして、……どうして、さきほどは声をかけなければとあんなに思ったのにけっきょく名前を呼ぶことさえ嫌だったこの人間の腕を、僕は――掴んで。
僕には、わからなかった。
しかし腕を捕まれたほうの葉隠さんは、その目を、……余裕があるときにはおっとりおしとやか、意地悪するときにはこれでもかというほど楽しげに細められた半三日月みたいな、そんな目を、いまは、……なんでもよく切れてしまう研ぎ澄まされた刃物みたいに細めて僕のことばっかり、身長差のぶん見上げていたのだった。
「離して、くれへんか」
「でも。だって。……どこに行くんですか」
自分でも、考えないでしゃべっているとわかった。自覚してしまった。だってこの次に僕はなにを言うんだ。なにを、言葉に。言葉として、このひとにぶつけてしまう。わからない、……わからないのに、自分がこれからなにかを言うのだということは、それだけは、わかる。予感ばっかり明確にわかる――。
「こんなときに、おひとりで、どこに行くっていうんですか」
「心配してくれてはるんですか」
葉隠さんは、笑った。このうえなく鋭く、挑発的に。
そうして僕の腕を強く振り払おうとした。躊躇するが僕は、……その腕を、離さなかった。
「いや。やめてよ。……離してください」
葉隠さんが、なんども、なんども、振りかぶるように僕の腕を振り払おうとする。
けれども僕は、離さない。どうしてだろう、けっして離してはいけないと、どうしてか、……どうしてか、そんな気がしてならないのだ。
わからないけれど――いまここで、ひとりで駆けさせるわけにはいかない、と。
「心配せんでも、自棄なんて起こさんから。私は、間違っとらんもん。私のこと友達に理解されへんくらいで絶望する人間やと思ってはるならそれは誤解や」
「……そんなことは、だれも、……言ってません。ただこの状況で単独行動は危険だと僕は思って」
「うるさいなあ! もう!」
葉隠さんが、怒鳴った。僕に対して、……怒鳴ったのだ。
感情を、剥き出しにして。僕こそ仇と、いっそいますぐ刺し殺してしまいそうな激しさで――。
「だれが単独行動するなんて言うたん! 違うよ。私は溺れてるひとら助けへんとと思うて!」
「……助ける」
「やから、ほっといて。……どうせあんたらなんもする気あらへんのよ。だったら私がします。やから、……離してよ」
「ほんとうに」
僕の腕から、力が抜けた。
葉隠さんの腕は、……ゴムみたいに、だらりと下がった。
「助ける気で、いたんですか。あそこで溺れているひとたちを」
「当たり前よ。……私もちょっとショックでぼんやりしてしもうた。でもそんな場合やないってちょっと冷静になれば来栖さんだってわかるやろ」
「こんな状況で……」
こんな状況で――なおもまだ、他人のことを助けると?
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