得体の知れない善意

 昨晩も、今朝も、そういえばこのひとは、……このひとたちは、そうだったけれど。

 まるで慈善活動みたいに広場を忙しく動きまわっていた。

 ここに居合わせたひとたちに、そこまでする義理など、ないというのに。社会評価ポイントのためだろうか。のちに罪に問われないためだろうか。いくらでも、理由を想像することはできる。けれど、どの理由によっても、僕は、たとえば、僕自身は――とてもそうやって他人を助ける気になどなれないだろう、……こんな状況で。



 ……それは。

 僕が、助けてもらったことが、ないから。

 そういう、……得体の知れない善意によって、助かったと、そのひとがいてくれてよかったと、心底そう感じることができた経験なんて、ないから。



 高校時代だって。

 そうだった。あのときだって。……だれかひとりでも、そういう得体の知れない善意をもっていたならば。あるいは、それを、僕に向けてさえくれたの、ならば。

 僕は、あのような地獄にずっと留まることはなかっただろうに――だれもそうすることはなかったのだ。



 それは。

 僕が、助けられる価値のない人間なのだということを意味する。

 端的に、意味する。

 ……そういうものを向けられてはいけない人間だったのだと。

 教えてもらったということだ、いまさらのように、心が痛むことなどない、ありえない、……自分が助けられなくて心を痛めていいのはたぶんまともな人間だけで、僕にはそうする資格なんてないのだから。



 ……そういったことがぐるぐるとする。

 得体の知れない善意は、だから、こうして、……目の前にすると、いまもこんなに僕の足元を絡めとる。




 そんなふうに、ぐるぐるしていたとき。

 ……右手のリードに、激しい振動が伝わってきた。



 わんわんわん、と大きな鳴き声が空気を切り裂いたのだ。

 ……南美川さんが、全身で吠えたのだった。



 そうしてあまりにも強い力で南美川さんは駆け出そうとする。

 僕が足をもつれさせると、南美川さんはこっちを振り向く。……早く来い、早く来いと、まるで散歩の先を急いて促す犬みたいに、でも、それでいて同時に、……高校時代のあのときのような、気の強さのかたまりみたいな、その表情で。


 その表情で思い出した。

 南美川さんもそういえばそういう、……得体の知れない、善意をもつ人間だった。


 僕には、けっして向かなかった。

 僕は南美川さんに人間と思われていなかったから。

 でもたしかに南美川さんは、人間と思う相手には、得体の知れない善意をばらまいていた。南美川さんのクラスメイトたちにとっては南美川さんは、……さぞかし、善意のかたまりだったに違いないのだから。




 ――行くわよ。




 南美川さんが、そう言った気がした。……南美川さんらしいその声と、表情と、感情で。

 実際のいまの南美川さんは人犬で、人間のときのままの素肌に、四つん這い、後ろから見ればお尻がつるんとしていて、まるまった柴犬の尻尾がちょこんと生えていて、でも、そうだろうと、……関係ないのではないか。そう錯覚できてしまうほど、いまの南美川さんは、まるで僕の知っていた南美川さんそのままで――。




「……犬も行きたがっとるんや。飼い主も、おいで」




 葉隠さんはそう言うと、こんどこそ一目散に駆け出した。南美川さんも、遅れながらも、その背中をまっすぐに追いかけるかのように駆け出した。僕は、このひとたちの走りに、速度に、ついていくのが――やっとのことで。脚は動かすことができても心は、……こんなにも、置き去りだけれど。でも。それでも――このひとたちが駆けていって僕はそれについていっている、ついていくことしか、できない、……ここで立ち止まることもできるはずなのに、どうしてだろう、僕は池に向かっている。



 溺れているひとたちのもとに、向かっている。

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