みどり髪のおかたは

 黒鋼さんと守那さんのふたつの背中が、列の最後尾に並ぶ。

 列はどんどん消化されていく。だから、そのたび、一番一番、彼女たちの順番も近づいて。

 ……あとに並ぶひとはもういない。

 だから、このままいなければ、彼女たちがつまり最後の最後の、最後尾になる――そう思っているうちにもひとびとは、川に投げ入れられたり、旅館に案内されたりする。冷たい真冬の川は容赦なくひとびとの身体を生命を壊そうとし、旅館では相変わらず急に出てきた謎の和服姿の人間らしきモノたちが、ひとびとを出迎え続ける。


 彼女たちの順番になったとき。

 影さんは、司祭は、こちらをちらりと見た。うかがい見ていた。でもすぐに彼女たちに視線を移して、その話をにこやかに聴いていたようだった。



 葉隠雪乃を、結果的には置いていくこととなった。

 黒鋼里子と、守那美鈴は。

 旅館で癒されることができるのか、それとも橋の両側の冷たい池に投げ入れられるのか。

 ほんらいならばハラハラするようなところなんだろうけれど僕は、どこか他人ごとのように、いや、……どこかバーチャルなことのように、目の前のできごとをぼうっとして眺めていたのだ。


 ひとこと、ふたこと。

 やはり彼らは、そこで言葉を交わしていた。

 司祭が小さく笑ったようだった。

 笑うように、しかし見ようによってはびくりと震えたかのように、小さなほうの背中――守那美鈴の背中が、震えた。

 黒鋼里子はその背中に、そっと、手を添えていた。まるでほんとうに妹を労るかのごとく――。


 司祭の笑みが、さらに深まった。

 いざなうようにやはり、その手で、奥を――旅館のあるほうを、さし示す。



 ふたりの女性は顔を見合わせて、ぱっと笑ったようだった。

 ここからでは横顔がわずかしか見えなかったがそれでも、花が咲いたかのように、光が点るかのようにその笑顔ができあがったことは、逆に言えばだからこんな距離から傍観していてさえも――よく、わかった、ことだったのだ。



 ふたりは手に手を取り合った。

 そのまま、もういちど、綻ばせた顔を見合わせて。その横顔は上気しているかのようにさえ、思えて。

 そうして、ふたりで、笑い合うと――手をつないだまま、一目散に駆けていった。

 その奥の旅館の存在する場所へ――存在、その厳密な定義をいまはいったん置いておくなら、という条件つきにはなるが。



 僕と、南美川さんが、立ち尽くしている。

 状況に、ついてこられずに。……この際もうそれは、いい。公園に来てから、いや、南美川さんの実家に行って散々な目に遭ってから、いや、……もとをたどればもういつだかもわからないずっとずっと前から僕たちふたりは、ずっと、こうして立ち尽くしていたのだろうから。


 それは、いいとして。

 ここには当然もうひとり、いま人間がいるわけで。

 ……葉隠雪乃だ。

 葉隠さんが、なかば呆然として、ここに立ち尽くしたままだ。



「どうして……」



 髪がなびくよりもなによりも先にその唇から生まれ出た言葉は、……いったい、なにを意味しているのか、僕には皆目見当もつかない。つけようとも、思えないけれど――。




「……おやおや。あなたがた、よろしいのですか?」



 司祭が、こちらを見ている。そうしてちょっと子どもみたいに無邪気らしく笑っている。相変わらず四阿の真ん中で座ったままで。虹色のとんがり帽子と司祭服。それらを着た、……まったく影さんらしくない、影さん。



「司祭は、移動しなければなりません。案内係のお仕事はもうおしまいにして、旅館でひとびとをもてなして、癒さなければならないのですから。……もっともあなたがたが心底反省していまここで司祭に謝罪するというのなら、なにか、……考えなくもないですけれども?」

「……僕たちは、いいです。僕は泳ぎも苦手ですし、……冷たいなかを、泳がせる気にも、なれないから」



 ……それに、さっき、疲労ならば癒してもらいましたし。

 なんでだかは、わかりませんけど。


 と、このひとにいま言うのは不適切なことなのだろう――根拠はないけれど、そう推察して感じることはできたから僕は、……そのことは、言わなかった。



 南美川さんのほうを見ると、南美川さんも僕を見ていた。さっきから南美川さんはなんどもなんどもそういう顔をする。すがるような、それでいて心配するかのような、とにかく一生懸命で、なにか必死なその表情――。



 影さんは、無邪気らしい、しかしその実不可解な笑みを、深めた。



「……そうですか。泳がせるというのは、そちらの、……わんこのことでしょうか。あいにくながら、わんこは、ひとではないので、……サクリィは受けられませんが。ふふ。ふふふ。いや。いいや。……いまは、そのようなこと、どうでもいいですか。では、はたして。そちらの、お若い、みどり髪のおかたは?」

「私も、かまへん」



 葉隠さんは、まっすぐに言った。怖い顔で。……なぜだか、その両のこぶしをぎゅっと握りしめて。



「怪しいってわかってまんまと嵌まるなんて、私には、できひんもん」

「……そうですか。しかし、貴女は、疲れたのでは?」

「……疲れたに決まってるやろ。当たり前のこと言わんといてくれるかな」

「癒されたく、ありませんか」

「しつこい。私はそないなけったいな船には乗らんで」

「化けの皮も、剥がれてしまって」

「黙り」


 葉隠さんは、司祭を睨みつけた。

 司祭は、おおこわ、とからかうように言って大袈裟に肩を竦める――その動作は、やはり、けっしてこのひとらしくなく。



「……それでは、ほかのかたもいらっしゃらないようなので、これにて、受付をおしまいにいたします。ここからは、いやしのサクリィに選ばれたかたがたの、いやしの時間。おもてなしの時間。もちろんあなたがたは、……あずかれませんけれど」




 影さんは、立ち上がった。

 虹色の司祭服が蝶々の群れのように同時に動いた。

 そうしてまたしてもふっとその場に浮き上がると、影さんは、……司祭は、そのままぽかんと姿を消して。



 ……あとには、なにも残らなかった。

 いいや、濡れぼそりきったひとたちや、溺れているひとたちだけは、残った。




 でも、橋は消え、四阿も消え、影さんの姿も消え。

 対岸の旅館も、まるで蜃気楼だったかのように、かき消えた――。

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