風は、吹かない
「……わかるよ。疲れとる、これからに備えたい、そういうん私もわかる」
葉隠さんは、友人を交互に見た。冷たい目で。それは――冬の寒さにも似た冷たさだと思った、……まるでこの、真冬の気候のようで。
いいや。もっと言うならば、雪のひとかけらのようで――たしかにこのひとはその漢字を名前にもっていたような気がすると、僕は、……ぼんやり思っていた。
「でもだから怪しいやん。簡単に乗っちゃいけんと思うのよ。私らのそういう、疲れや、不安に対して、つけ込んではるんよ。私らのすべきことはそれに乗るんでなくて対抗することなんやないの。……実際いま広場におる全員があの司祭とやらの言う通りにしとるわけやないやろ。逃げたり考えたり、いろいろしてはるはずなんや。私らがまずすべきはそういうひとらと協力することやろ。間違っても、言う通りにすることやあらへんよ」
「正しいと、思うよ。雪乃の言うことは」
「……だったら、里子。なんでさっき止めたん」
「だれかが言ってたでしょ。正しさだけでは、立ちゆかないんだよ」
黒鋼さんは黒鋼さんで、冷たい目をしていたが。それはまるで、無機質なものを眺めるような。役立たずのがらくたの山を、夕陽のなかで見下ろしているかのような。金属質な冷たさなのかもしれない、それともそれは、……やはりその名字に、そのような印象があるゆえに――なのだろうか。
「私も、里子と、おなじ意見だよ。ねえ雪乃。さっきみたいなことしちゃ、駄目だよ。ひどい目に遭うよ。……そこのワンちゃんに私たちがされたみたいに」
守那さんは、どこか哀しそうに南美川さんを指さした。南美川さんは尻尾をしおれさせ、……どこかさみしそうに、かつての大学の同級生を見上げたのだった。
「私、もう、ひどい目に遭いたくないの。痛いの、いやなの。……ねえ従ったってひどい目に遭うのかもしれない。でも従わなければ、もっと痛い目に遭うんだよ。氷漬けも、獣になるのも、植物になるのも、私、いやだよ。……怖いよ」
「でも、美鈴。それはまんまとハマることやで。悪意あるだれかさんはそれを狙って――」
「だからそれでもいいってことをさっきからずっと説明してるんじゃない!」
キン、と響いた、幼い女の子のような声に。
葉隠さんは、一瞬怯んだようだった。
守那さんは、葉隠さんを睨んでいた。それこそ一生懸命、幼い女の子のように睨んでいた。その目は冷たくはなかったが、しかし、そのぶんあまりにうるさそうだった。言いたいことが、そのふたつの目いっぱいに、すでに溢れてしまっているのだ。
……鈴が、鳴るかのように。
鈴の音は、ひとつだったら大層心地いいし、雨だれのようにいくつか鳴ってもさぞかし風流に違いない――けれどもあまりにばんばか鳴ったら、それはまた別の話だ。ひとつであればかわいらしく涼やかな音だって、……リンリンリンリンリンリンと鳴り続けたらそれは、無人の家に鳴り響く古典電話の呼び出し音よりも、もっと、もっと、うるさいことに――なるだろう。
「……雪乃。私の、私たちの友達」
黒鋼さんはそんなふうに、一種大仰な言葉で語りかけた。
「私と、美鈴は、……あそこに行くよ」
黒鋼さんは、さし示した。……まさにいまいやしのサクリィをしている、虹色の装飾を過剰にまとった、あの、司祭のもとを、そのようすを。
守那さんも、まるで事前に打ち合わせでもしていたかのように――素直に、こくんと、うなずいた。
「選ばれたら、万々歳だし。選ばれなくても、どっちかが選ばれてれば、体力を回復したあと助けに来てもらえるかもしれない。……どのみちこのまま疲労してたらくたばるよ、冗談でなく、私たち。……それにさっきから見ているとどうやらひとりよりはふたりのほうが、合格する可能性が高そうだ。ふたりよりも、三人なのかもしれない。雪乃ももちろん来ていいんだよ。……いっしょに行こうよ」
「私、いまのままでは、いられないの。騙されていたって、いいよ。なんでこんなことになってるかっていうのも、もう、いいの。……疲れたんだよ。ねえ、わかるでしょう、雪乃」
葉隠さんは、硬直していた。……信じられない、といった想いをその全身から滲ませて。
「ねえ、わからないの……雪乃。わからないっていうの? 私たちの、親友――」
「わからへん」
葉隠さんは、声をすこし震えさせて、答えた。
「私は、そうやって、すべてを投げ捨てることは、できひんよ。諦めるなんてこと――」
「あっそ」
優しい笑顔で、いたわるように。黒鋼さんは、そう言った。
「……美鈴、行こうか」
「うん。ねえ、来栖さんたちは――」
「そのひとたちは、誘わないほうがいいよ。……雪乃だってあのひとの言葉がなければさ。もしかしたら。私たちと、いっしょに」
「そっか」
守那さんは、疲れきって微笑んだ。そうして黒鋼さんに手を引かれ、ふたりは世界でたったふたりきりの姉妹みたいに、列の最後尾に、並んだ。
そのふたつの背中は、奇妙なことに、とても幸福そうに見えた。葉隠さんはそれらの背中を、これ以上ないほどに唇を引き結んで見据えているのだった――その黒髪には、もう、風は吹かない。……この人間のことを妙にきれいに演出していたかのようなあの、風は、もう、いまは、吹いていないのだ。
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