なにかは、起こっている

 雑木林を、抜け出た。

 遊歩道が、広がっている。懐かしい。戻ってきた、感じだ。……こんなにわずかな時間のなかでも。



 広場のほうから、煙が上がっているのが見える――そしてひとびとの悲鳴がかすかに届いてくる。雑木林のなかにいたときには、木々のこすれる音や、そもそも木々に覆われているせいで、いまいちダイレクティに届いてこなかっただけかもしれないけれど――雑木林を抜ければ、惨状の気配が、……こうして離れた場所にいてもたしかに、伝わってくる。



 急ごう。その意味を含めて、僕は南美川さんの首輪につながるリードを軽く、引っ張った――問いかけるように、南美川さんは見上げてくる。



「あの子たちは、自由を嫌っていた気がする」



 その言葉は、ぽつんとしていて、しんとしていて、どこか……苦しそうに、僕には聞こえた。



「あんなに、ルールや決まり、枠に収まりきれないところが、あったのに。あの子たちは、いっつもいい子で。自分たちから、どこかに収まろうとしていた。姉のわたしはそう感じていたのよ……」

「……そうなんだね」



 そうなんだね。僕には、そう言うことしかできない。慰めも、励ましも、こんなときにはなにひとつ役に立ちはしないとあらためて痛感する。僕は、ただ――聞いたというあかしを呈示するしか、いま、できることがないのだ。




「……それで、南美川さん」




 もうすぐで、広場に――着いてしまうだろうから。



「正午に、なにかをし出すという彼の習慣みたいなものは、どうして、起こるんだろう」

「どうして、なのかしら。わからないわ。深く考えてみたこともなかった……でも化ちゃんにとってはすごくだいじなことだと、わかってたし。でもすっごくプライベーティなことすぎて、……いまいち、わたしには踏み込めなくて」

「踏み込めない……」

「たとえば、あの子たちにだって、夏休みがあるでしょう。学校の、長い長い夏休み。そういうときには化ちゃんは正午に執着するの。とっても、執着するの。正午へカウントダウンするみたいに、三十秒ごとにタイマーを鳴らしていたときもあった。時計の前で、正座して待機していたときもあった。まるで神さまでも扱うかのようにあの子は正午を取り扱っていたの……」



 神さまでも、扱うかのように。



「まるで普段できていないことを、不義理を、詫びるかのようなようすだったの。あの子は中学でも高校でも正午からかならず毎日なにかを開始する、ということはできなかったはず。そのはずだったから、わたしは怖かったの。普段、あの子がそうとうのことを、……我慢しているんじゃないかって思って。だから、……ふれられなかった」



 我慢。

 その言葉で表しうるならば、あるいは、……そうなのだろう。




「あのね、あの子はね、国立学府への合格が比較的早く決まったのだけれど。国立学府への合格が決まって、喜んでいたことがあるの。国立学府ってね、二限がきっかりお昼の十二時に終わるの。正午ってことよね」

「十二時か……早いね。僕の大学は、二限が終わるのは十二時半だったよ。僕は僕の大学しかまともに知らないけど、でも、早く感じる」

「シュンの言う通りよ」

「普通大学というのはそのくらいに終わるのかな」

「ううん。国立学府の時間割は、全体的に早いの。国立学府は国立とうたってはいるけれど、実態は世界立だわ。……知ってる?」

「なんとなくね。聞いたことは、あるよ」

「国が運営する、世界立みたいなものだった。世界が絡むとね、時間割がそうやって区切りのいい時間に設定されるみたい。惑星時差の関係らしいわね。……化ちゃんはね、だからね、国立学府の時間割が、とっても好きだったみたい。楽しみって言ってたわ」

「彼は、じゃあ、いまは都合よく過ごしているのかな……」

「わからない……」



 南美川さんは、僕を見上げた。



「わたし、あの子たちが大学生としてやってくの見届ける前に、人犬に、なっちゃったから」



 苦しそうな、笑みだった。――でも。



「……でもね、たぶん、いまそうして過ごしているんだと思う。わたしの知っていたころの化ちゃんのまま、あの子が過ごしているならば――正午でしょう、ちょうど十二時過ぎでしょう、あの子は、――いっつもなにかをしている。そんな時間の、はず」





 なるほど――。





 遠く、広場では、惨状の気配が、するのだ。

 近づけば、近づくほど、……それらは臭いのように近づいてきて。

 僕たちはなにかを覚悟しなければならないだろう。

 なにかが、そう、起こっているのだ、たしかに、たしかに、なにかは――起こっている。

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