お誘い
「――絶対者が、言っていますよ」
影さんは、両腕を高く上げた。
高く、高く、高く――それこそ天にも届くくらいに。
「世界が、はじまると。ゲームが、はじまると」
影さんは、笑った――いままでの弱々しいあるいは痛々しい印象のそれとはがらりと変わり、どこか凶暴だとさえ感じさせる笑顔、……愉悦さえも、感じさせる笑顔。
そうして風が、吹いたのだ――。
その風は。
あまりにも強い。
まるで影さんを狙い撃ちしたかのような。
横にどこまでも延びる、直線みたいなその風は。
影さんの、けっして長くはない髪の毛と、虹色のとんがり帽子を、同時に同様の方向に向かせた――。
……風は、ふわっと吹き終わる。
「さあ、鳴り響きますよ」
「鳴り響く、って、いったい」
「いまに、わかります。――さあ! 世界よ!」
……そのとき。
轟音が、響きわたった。
最初は、揺れかと思った。
足元から崩壊していくのかと。
だから、とっさにしゃがみ込んで南美川さんを抱きかかえた――けれども、どうも地面が崩壊しているわけではないらしい。すくなくとも、ここは。……どちらかというと轟音のほうがこの地面を揺らしているのだ。
僕は南美川さんを抱きかかえたまま、影さんを見上げるようにして見据えた。
影さんも、そこに立ったまま、僕を見下ろしてくるのだった。
「……はじまりました」
さあ、と叫ぶように繰り返して、影さんは右手を高く、高く上げてどこかを指し示した――虹色の帽子にばかり目がいっていたけれど、その袖は、……人権制限者の管理者のときのまんまの、制服だ。
「世界の、はじまり。そして、原点回帰。だそうです。……エデンを達成させましょうね、ということで」
「それは、つまり、楽園のことですか――」
「もちろん」
ああ。もう。だれしも。……かれしもが。
エデンだ、楽園だ、なんだと――そんなことばっかり、言っていて。
……僕のだいじなことなんてそのなかに、なにひとつ、本質的には含まれていない。
そもそも僕はここに散歩をしに来ただけなのだ。
もちろん、ぶらぶらと暇をつぶすようなたぐいの散歩ではない。
ノルマを、こなすためだ――でも散歩は散歩だ。なにもそんな、……わけのわからないことに首を突っ込むために、来たのでは、ないのに。
かといって公園のなかのひとたちが悪いわけではないことも、わかっている。
……頭ではほんとうによくわかっているのだ。
悪いのは、あくまで、あのふたご――わかっている、わかっているが。
……極度の疲労は、とれたはずなのに。
僕の心は、たしかに、疲れていた。
心身ともに、元気になるわけではないのか。いや、それとも、回復しても瞬時に疲れてしまうほど、いま僕の心は――いや、いい、どうでもいい、……ほんとうにどうでもいいことなのだけれど。
僕の心の問題など――世界でいちばん、どうでもいいことだ。
だから、だろうか。
そんなことを思っていたからだろうか。
……影さんが話しかけてきてもろくな対応ができなかったのは。
轟音は、続くが、……しかし。
「社会人のかた。お誘いが、あるのですが」
「……はい、なんでしょうか」
「よければ、影の、仲間になりませんか」
「……え?」
――仲間?
影さんの顔は、本気に見えた。
静かで、おとなしくて……さみしかった。
「いまなら、絶対者も、あなたを認めるとおっしゃっています……」
あの、ふたごが? ――まさか。
あるはずが、ない。
さんざんに。
僕を、さんざんな目に、あんなにも逢わせてきた人間たちだ……。
あるとしたら、そんなのは……罠だ。
だから、僕は、首を横に振った。
小さな子どものようにそうして、ただただ単純に、……目の前のこのひとを、いや、目の前のなんらかこの事実を、……受け入れなかった。
どうして、ここで、影さんがそんなこと――僕と仲間になりたいだなんて、言い出すのだろう。
僕は、僕は。仲間になるだなんて。そんなことに、世界でもっとも向いていない。適任ではない。だれとだって人間と仲間になってはいけない、ただ単なる本質的には人間未満の、劣等者なのに――。
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