あとにした
もうひとりの黒髪の女性は、僕をじっと見ている。
動かない。微動だにしないように見える。……さきほどはその髪を揺らしていた風も、もうぱったりと吹き止んでいるように思えた。
「……来栖さんって、そういうひとやったんやね」
「どういうひとであるかをイメージしていたかは、僕には、わかりませんが」
「なんや、たしかに、イメージとは違ったな……」
女性は、薄く笑った。僕はどうしていいかわからず、……僕も、ちょっと笑ってみた。
「意外やった。大学のときに聞いた南美川さんの話からすると、もっとこうな、こうなあ、しょうもなくて、情けのうて、なんでも言うこと聞く、そんなおひとやと思っとったから」
「……そんな人間のつもりで僕に近づいたんですか? 仲間になりましょう、って?」
「ほら、そういう返し。……そういう返しをしはるのが、意外や」
それは、どういう、……返しのことなのだろう。
僕にはわからなかった。しかしわざわざ尋ねるほどのことでも、ないだろう。
「でも、間違ってはいませんよ。僕は、どうしようもなくて、情けなくて、南美川さんの言うことならなんでも聞きました……そういう人間だったんです、じっさい。高校のころには。あなたがたが僕のなんの話を聞いたのか、そこまでは知りませんが」
「すべてや、ないと思う。でもけったいな話もたくさん聞いたよ……」
僕は、薄く笑いなおした。高校時代の僕のエピソードは、それも南美川さんが知っているようなものは、どれもすさまじいものだ……たしかにそのうちのどれかひとつでも他人が聞いたら、そのいじめられていた来栖春という人間は、どうしようもないやつだ、なんならば、まるで奴隷のようだと思うのだろう。
「そういうのを聞いて、あなたたちは、僕と仲よくなろうと思ったんですか。……そもそも、そのために、その公園に来たんですか」
「そうよ。だって、南美川さんの妹と弟が、教えてくれて……きっと来栖さんとも仲ようなれると思いますよって、無邪気になあ、教えてくれたん。ほらいちおうあの子ら私らにとっちゃ国立学府の後輩やろ。妹のほうはにこにこしてて、弟のほうはおっとりしてて、いい子たちや思ったんよ。やから来たんや。もちろんなあ、南美川さんのこと思いっきり笑いたかったってなあ、……そう思ってなかったわけも、ないけどなあ。こないにとんでものう事態になるとは思っとらんかったし」
……やっぱり、あのふたりが、動いていたのか。
たとえば、どう出るだろうか。あのふたりこそが、この状況の元凶なんだとこのひとに告げたら。おそらくは、あなたがたも、彼らに嵌められたかすくなくとも道具にされたのだと、伝えたら。……なにかしら、協力してくれるのだろうか。もっと情報を、くれたりするのだろうか。
すこし、考えてみた。
しかしやはり、その気にはなれなかった。
この人間は、なんだかんだで南美川さんを憎んでいるはずだ。僕に対しても、いまや仲よくなりたいと思うより、不可解に思う気持ちのほうが強いだろう。
そしてそうなってしまえばこの人間は、後ろで泣いている人間とそれを慰めている人間のほうの味方に、決まっている。
……僕と南美川さんだけしか真相を知らないというのは、不利でもあるが、ある意味では徹底的なアドバンテージでもある。この場で簡単に渡す気にはなれなかった。
あるいは、僕がもっと他人を信頼できる性分ならば、そうしたのかもしれないけれど――あいにく僕はそんな性分ではない。まったく。だから、……けっきょくのところ、言わないことにしたのだ。
「……とにかく、ご無事でよかったです」
そもそもここには、呼ばれてきた。かりにも人間であるこのひとたちが、……安全なのかどうかって、そう思って来たのに、僕は、僕の感情が、……こんなにも揺れるとは思っていなかったから。正直なところ。
黒髪の女性は、腕を組んで嘲るように笑っていた。
「キメラになった人間たちの喰いあいが発覚したとしても、か」
「それは、もちろん、僕だって、思うところがある。でも起きてしまったことです。仕方ないです」
「……嘘っぽいなあ。来栖さん、あんた呆れるほど、白々しいよ」
僕は、それに対してはなにも言わなかった。
「あなたがたは、無事だったようなので……僕たちは、そろそろ行こうかと思います」
「南美川さんもいっしょにか?」
「……もちろん」
「はん。なるほどなあ。こないなときに、仲ようふたりでデートかい。ええなあ、仲よしで。うらやましいわあ。……ぶち殺したくなるほど」
古都らしくもないような言葉だった――けれどもこの人間には似合っていた。薄いながらも上品な笑みのまま、……瞳だけをぎらつかせるのが、なぜだか妙に似合っていると、思った。
「……そういうわけでは、ないのですが。ちょっと、調べなくてはいけないことが、あるので……失礼します。南美川さん、……行こう」
南美川さんを見下ろすと、南美川さんはこっちを見上げていて、目をいっぱいに見開いていた、いまにも涙があふれ出しそうなほどに、そのふたつの大きな瞳が涙の皿でもあるかのように――僕はその顔に、心打たれた。こんな状況でもなければいますぐ、……このひとの身体を、全身で包み込んでやりたかった。南美川さん、南美川さん、……寒いし、嫌だろうし、こんな話、聞かされて目の前で――たまったものでは、ないだろう。
……僕がこのひとを慈しめれば、よかったのに。
せめて。
でも、それはかなわないから、僕はせめて――同情するように、共感するように、笑った。
……他者にはけっして向けることのかなわない僕の感情を、いま、ここで、めいっぱいに、不器用であっても、……向けたのだ。
目的地なら、たしかにある。
なにも、ここから逃げるためだけじゃ、ない。僕は僕で、やらなくてはいけないこと、確かめたいことがあるのだ、南美川さんといっしょに確認したい、生物学のことは生物学の専門家に任せておこうじゃないか――心中、すこし皮肉っぽいことを思って、彼女たちに背を向けて、……歩き出した。
そんなときだった。……僕を白馬の王子だとつい先ほどそんなおぞましいほど見当違いなことを言った、ひとりの人間の声が、投げつけられる。
「きっとそいつが裏切り者なのよ!」
もはや、ほとんど、叫び声だった。
「現代生物学への、反逆よ。進化生物学者と、組んでいるのよ。スパイだったのよ。おとなしそうな顔しちゃって、私たちを騙そうとしていたの! ねえ、みんな。あいつよ、あいつが、犯人よ。犯人どこかにいるって言ってたじゃない、ねえ。ねえ。ねえってば! あいつなんだから、あいつよお、私たちに協力してくれないひとなんて人間じゃないもの――」
「美鈴、美鈴、……美鈴、ねっ、落ち着いて、もういいじゃない、いいよ、いいよ、ほっとこうよ、ね、美鈴、……美鈴、お薬飲もうよ……」
……もちろん、事実は異なる。
僕は進化生物学者と組んでなどないし、スパイでもない。
もちろん犯人でもない。
けれどもそれを訂正する気持ちは、僕にはなかった――僕は南美川さんのリードを掴んで、歩み出した、ゆっくりと、……南美川さんがなるべく無理なくついてこられるように。こうして一歩一歩、歩んでいくあいだにも、当然、ノルマは、歩数計に刻み込まれていく――さあこなそう、ノルマをこなそう、僕は、僕のこなすことを、……すればいいのだと。
そう思って、耳を塞ぐように僕は、南美川さんをつれて――そのままその場を、あとにしたのだった。
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