人間なんて
どうしてだろう。どうしてこんなに、苛々するのだろう。
わからなかった。自分でも、わけがわからなかった。ただ、ほんとうに苛つきが煮えたぎっていた。心の奥底で、ふつふつ涌いて、無視するには大きすぎる、制御するには熱すぎる――踏み越えてはいけない一線を越えようとしている、ということはわかった。ここで、とどまっておかなければ、いけない。
感情的になることはよい結果をなんらもたらさない――そう知っていたから僕はある時点から自分の感情を自分のなかにだけ溜め込む技術だけをひたすら磨いてきたつもりだったのに、……いま、まさに、それが通用しなくなりそうなのだ。
メッキが、剥がれる。
「……だいたいあなたがたは僕のことを同類だと、仲間だと思っているようですが」
ああ、踏みとどまるなら、いま、いまなんだ僕は、わかっているのか、――わかっているんだ、わかっているけれど、踏みとどまることができていない。どうしてなのか、わからない、ほんとうに自分でもわからないんだ――でも止まらないんだ、その予感と、……事実だけが、いま、僕の身体じゅうに存在している。
「僕からしてみれば、……とんでもないことなんです」
ほら。三人が。怪訝そうな、心底理解できないという表情を、向けてくる、僕に、ほら、だから、やめとけって、いまならまだ、……ああ、やめておけばよかったんだ、最悪、最悪だ、他人に向かって感情を露出するだなんて。それも八つ当たりみたいに、こんなタイミングで、どうしてだ僕は、どうしてだ――。
もう、止まらないんだ。
「僕はあなたがたみたいに南美川さんに復讐する気はないし、笑いものにする気もないし、憎悪をぶつける気もない。僕にとっては南美川さんを人間に戻すことがいちばんの関心ごとで、だから逆に言えば、あなたがたのように南美川さんとかかわることは、とてもできない」
「……南美川さんにいじめられたのに。仲間やんか」
「たしかに僕は南美川さんにいじめられた。あなたがたのように。でもその後の僕の南美川さんとのかかわりかたは、あなたたちとは違う。まったく違う。決定的に違うんです」
「……ねえ、まさかと思ってたんだけどさ。人間に戻すって、本気で言ってるの? 南美川さんを一生飼い殺しにするための、方便かなんかではなくて?」
「僕は南美川さんにそんなことをする気はない。本気か本気でないかと問われれば、本気です」
「……ほんとだあ、理解できないよねえ。私たちは南美川さんに徹底的に復讐してほしいのに苦しんでほしいのに――」
「だからそれが違うって言っているんだ!」
思った以上に。
僕の吐き出した、剥き出しのそのままの感情は、大きな叫び声となって僕の腹の底から、身体の芯から、響きわたった。
地面を睨んで、僕はそうしていた。拳も固く、握っていた。視界の端には、南美川さん。いまここでほかのだれより名前が出ていて。いちばんの、当事者で。南美川さんという存在がいなければ、南美川さんのいじめという烙印がなければ、出会わなかったはずの彼女たちと、僕。そんななかで。南美川さんだけが人間として発言できず、這いつくばっている――そんな現実を直視できなかったから僕はひたすら地面の土のなんでもない、なんにもないところを睨みつけているしか、なかったのだ、いや、あるいは、……ただ単に、呆然と。
彼女たちは、なにも言い返してこない。
……風が吹く気配も、なにもない。他人の気配も、やけに遠い。静かだ。とても静かだ。奇妙に静かだ。静まり返っている。煮えたぎっていた僕の感情は、すこし、ほんのすこしだけ、冷まされていくかのようだった。
「……すみません。大きな声を、出してしまって。でも。違うんです。だから。……違うんです。あなたたちと、僕とは、違う。だからもうあんまり、……僕にかまわないでくれませんか」
「よかれと思ってやってやったのに!」
金切り声をあげたのは、黒鋼さんだった。
ゆっくりと視線を上げると、……鬼のような形相で、僕を睨みつけている。
「喜ぶだろうと思ってわざわざ接近してやったのに」
黒鋼さんはすさまじい速さで僕に歩み寄ると、すさまじい勢いで、僕の胸ぐらを掴んだ。僕は、あえて抵抗しない。いまにも噛みついてきそうな顔が胸もとにある――。
「仲間に、してやろうと思ったんだよ」
黒鋼さんは、笑った。口の端だけで。その笑みは、笑顔というよりは歪みだったのかもしれない。震えていた。声も、口の端も――言いわけできないほどにあきらかに、震えていたのだ。
それは、ほんとうの怒りだった。
たぶん普段の生活のなかではめったにお目にかかれない、……心底からの、怒りだった。
「私らは、ずっと、いっしょだった。他人なんか介入する余地がないほどにね。けれども来栖春。あんたの話を聞いたから、私たちは、哀れになったんじゃないの。……ひとりぼっちで南美川幸奈のつけた傷に苦しんでいるんだろうって」
「僕の傷は、僕の傷で。だから」
「ああ、もうわかってきたよ、あんたのパターン、読めてきた。僕の傷は僕の傷だからあなたたちには関係ない――とでも言うつもりなんだろう!」
ぞっ、とした。
理解される。それは僕がもっとも恐れることのひとつだ。もちろん部分的だ。もちろん局所的だ。でも、たしかに目の前のこの女性は、僕のことを理解した。ひとつ、理解したのだ。それが間違っていないからからこそ――僕はいますぐこの場から逃げ出してしまいたくなるような悪寒を、本物の恐怖を、背筋と心じゅうで感じていた。
僕の胸ぐらを、この女性は掴みなおす。そうして顔を近づけてくる。そうだ、僕がこうして顔に他人の顔が接近する経験をするのは、こういうときくらいで。そう、……脅されているときくらいで。
ああ、嫌だ、嫌だなあ、……他人にふれられてしまうのは、僕は、こんなにも嫌だ。
「……仲間が増えると思ってたんだ。美鈴なんか、優しい子だから、ほんとうにそれを楽しみにしていたのに。おまえ、見ろよ、美鈴のあの顔を見ろよ!」
呼びかたがおまえに変わった、というのを噛み締めている間も、なかった――頬を張られるように伸ばされ、無理やり方向を変えさせられ、僕はこの女性よりもいくぶんか背の小さいあの女性を、その表情を、見たくもないのに見せられる羽目になった。
「ほんとうに、おまえのこと、待ってたんだぞ。白馬の王子だと思って、信じていたんだぞ。おまえが、めちゃくちゃにした。おまえが――裏切ったんだ!」
「……信じるだとか、裏切るだとか」
胸ぐらをあまりに強く掴まれているので、呼吸が苦しい、声がかすれる――それでも僕は、こちらからは抵抗しないでただただなされるがままに、していた。あくまでも、……体勢は、そう、このひとに、このひとたちに、なされるがままに。
右手のリードだけは、ちゃんとたしかめる。ちゃんと。そう、……事前に決めたシグナル通りに揺らせば、南美川さんがだいじょうぶだというサインに首をすこし縦に振って、りりん、りり、りん、と知らせてくれる。
「あなたたちは、いつもそうだ。勝手に信じて、勝手に裏切られている。あなたたちは、いつもそうなんだ。僕は知っている。人間というのはそういうものだ。だから、あなたたちも」
「あなただって人間でしょう!」
叫んだのは、背の小さいほうの女性だった。そのままなぜかくずおれて、勢いよく泣きはじめる。僕の胸ぐらを掴んでいた女性は、その瞬間ぱっと手を離して、その女性のほうに、駆け寄った。そうしてどうやら、あれは、慰めているらしい。
僕は、ただその光景をぼんやりと見ている。……人間どうしが繰り広げる光景を、人間だなと思って、見ている。
もうひとり残った女性が、……黒髪の長い女性が、僕をじっと、静かに見ていた――だから僕は問いかえすかのように、視線を戻した、……ほんとうはもう、人間なんて僕はまっぴらなんだけれど。
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