壊されたもの
僕があっけにとられて、なにも言えないでいると。
ちょうど黒鋼さんが立ち上がって、こちらに向かってきていた。
「里子。状況、どうなん」
「うーん、もうさっぱり。にっくき異端の進化生物学者のやつらの介入ってだけはわかるけど、ほかに断面を肉眼で見てもなー、顕微鏡があるわけでもなし」
「そっか」
「まあ、それよりさっ」
それより、といま、黒鋼さんは……言いきったか。
この状況で。どうして――。
「やあやあ。四人組の、集結だね?」
「あっ、里子っ。そうなのよ。いまねえ、来栖さんは私たちの王子さまだよねって話、してたの」
「あはっ、美鈴はそういうの好きだよねえ」
「ええやん、かわいらしいもんやんか」
和気あいあいと、しゃべっているけれど――僕は当然そちらがわではない。僕は四人組なんてものの一員ではないし、そもそも、だれの立場でもない。
僕といっしょにいるのは、南美川さん。つねにいっしょにいるのは、南美川さん、南美川さんだけだ。見下ろしたい、いや、見つめたい。反応を知りたい。このひとがいま、どう感じているのか、どう思っているのか、それを、知りたい、知りたい、知りたい。けれども状況がそれを許さない――僕はほんとうにただの役立たずの石みたいになってこの場に突っ立っている。
「来栖さんっ」
――ただの石でありたいのに、そうしてまた、黒鋼里子も……僕の名前を呼ぶのだ。妨害するのだ。僕の世界を。だれとも極力かかわりたくない。知られたくない。見られたくないという僕の想いを……そうやって、かるがると踏みにじるのだ。
「美鈴の表現はメルヘンチックだったけど、でも、私たちが来栖さんに期待しているのは事実」
だから、期待って、……だから、いったい、なにが。
「来栖さんだって南美川さんに手ひどくやられたんでしょう」
「ええ。それは、まあ……」
「私たちにだって、そうとうひどかったよ。でもその比ではないくらい、やられたんでしょう」
「……あなたがたがどれだけのことをされたのか、知らないので、なんとも」
「あははっ。真面目だねえ。――でも将来壊されるほどのことは、されたんでしょう」
「……はあ」
「そんな経験をもったひと同士だ。美鈴も言ったかもしれないけれど、そんなひとたちが世のなかにたっくさんいるわけじゃあ、ないでしょう。いや、南美川さんだったら、そうとう膨大な量のひとたちいじめてきているわけだから、たっくさんいるのかな? なんて。あはっ、たははっ。だったら南美川さんたちの被害者の会でコミュニティとかつくって、みんなで畑耕してさあ、そんで南美川さんを毎日毎日いじめかえす? なーんてねっ、冗談だってえ、来栖さんってほらあ、冗談通じないほうだっけ? あはは、あははっ、たはははっ」
状況が、切羽詰まっていることはわかっている。
一刻でも早く、打破しなければならないことも。
だから。自覚はあったんだ。
こんな状況で、そう。
――こんな状況にも、かかわらず。
僕は、だんだん、苛立ってきた。
ひとに苛ついてはいけない。僕はそう強く強く思ってきて、それを実践して生きてきた。立派な目的ではない。自制でも自律でもない、もちろん。……苛立ちを人間にぶつけたら、その人間もなにか反応を返してきて、結果的に僕は死ぬからだ。
僕はほんらい人間未満だ。人間とやりあって、まともにかなうわけがない。……だから、高校のときもそうなった。初期の初期こそは、たまにそうして感情が爆発してしまった。苛立ちが、怒りとなって、嘆きとなった。……でもそういうときにいい結果になったためしなどいちども、ない。
ひとに、苛ついてはいけないのだ。いけない。他人のためではない。あくまでも自己中心的な意味で、それはいけないのだ。いけない、いけないんだ、死んでしまう……けれどもそうして自分自身の心に語りかければかけるほど、説得して、ねじ伏せてしまおうとすればするほど、珍しい、――ほんとうに珍しい、この苛立ちはむくむくと大きくなって……止められない。
……僕のほうが当然、身長は高いけれど。
このひとたちを、見てみれば――それは自然、見上げるみたいな視線になった。そう、そういえば僕は高校時代の、いじめられていたときにもよくこうやって、……南美川さんたちを、いや、……南美川さんをいちばん、向こうのほうがあきらかに背が低いのに――見上げてたんだっけ。
見上げるしか、なかったんだっけ。
「……将来、くらいなら、まだよくて」
僕の声は、低く這っていた。
そう。あのときのように。……毎日自分が人間ではないと思い知らされ続けた、あの、壮絶な日々のさなかのように。
「将来だけではない。僕は、人生を、人間として生きることを、人間であることを、壊されました。だから」
いっしょに、しないでください。
続けた言葉と同時に僕はうなだれて、だから、……最後の言葉がかき消えてこのひとたちに聞こえなければいいなと思った。ああ、ああ、こういうときにかぎって、――なぜだか、公園には風が吹いていない。
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