すがるかのように
「シュン、速い、……速いわ」
気づけば、僕はずいぶん早足で歩いてしまったらしい。ごめん、と南美川さんにひとこと謝って、立ち止まった。……歩く速度を遅くはすれど、歩みを止める気はなかったのだけれど、なぜだろう、どうしてだろう、僕は立ち止まってしまったのだ。バッテリーの切れた古くさい電動おもちゃのように――。
雑木林に来ていた。ひとの気配はない。ひとびとは、どこかひとところに集まっているのだろう。状況はここにいるひとたちが当初思っていたよりも、緊迫している。人間がバケモノになり、バケモノになった人間どうしが、喰らい合い、殺戮し合う。……そんななかで、この短時間であっても、ひとびとは身を寄せ合うすべを、覚えたのだ。
木々も、地面も。彼らに改変される前そのもののすがたを、そのまま保っているように見える――すくなくとも肉眼で認識できる範囲では。
……風が吹く。
雑木林の木々たちを、さらさらさらと揺らしていく――。
僕は、思わず、その場にしゃがみ込んだ。そのまま、頭を、抱え込んだ。……たしかに僕のなかでいま、なにかがいっぱいいっぱいだった。表面張力ぎりぎりでどうにか保っているようなもので、だから、あとわずかでも増えてしまったらこぼれ出してしまいそうだった。
いや。いまさっき、ついいまさっき、すでにこぼれてしまったではないか。最悪だ、他人に対してあんな剥き出しの感情を向けるだなんて。
自分のなかで処理しきれない感情。
自分の器を超えてしまうほどのなにか。
……だれしも、そういうときはあるのだろう。
だが。
僕は、いけないのだ。僕は、……僕だけは、人間に向かって、そんなものを向けてしまってはいけなかったのに。そんな資格も権利もない。そんなことができるほど、僕は充分にも上等にも、人間ではない。それなのに。それなのに。
――Neco言語で、彼を呼んでみた。
思えば、南美川さんの実家で、病院の部屋で。僕はNecoと会話した、いろんなことを、ときには雑談めかして会話した。そういうときには、たしかに、……僕は彼に、感情的な要素を託したのに。
この世のなか、社会。呼べばいつでも反応してくれるはずのNecoは、いまや、呼びかけたってしんとしている――彼になら、……彼にだけなら、僕は感情的になってもいいかなと、ちょっとはそう思えていたところがあったのに、なのに。
ああ。僕は、なにを考えている?
最悪だ、状況も気持ちも、すべてが、最悪、……Neco言語でひとつ、悪態をついた。意識してそうしたというよりは、気づけばその言葉が口から出てしまっていたのだ。
……ふと、頭に柔らかいものが落ちる。
いや、落ちてきたのではない。これは。……肉球だ。
南美川さんの前足の、肉球だ。……そっと、僕の頭に載せられている。
僕は、ゆっくりと視線を上げた。……うずくまる僕に、それでもめいっぱい南美川さんのいまもつ背を伸ばして、……がんばって後ろ足だけで立って、でもやっぱり人犬の身体では二本足みたいに立つことに限界があるのだろう、支えるのが限界だといわんばかりに、震えて、震えて、……でも南美川さんは優しい目をして、僕の頭にその肉球を――背丈をめいっぱい伸ばして、載せてくれているのだった。
「ねえ、シュン。さっきから、なにを言っているの」
「なにって、その」
「わたしには、あなたほどNeco言語はわからないもの。でも、いま言ってたこと。Neco言語なんでしょう? 響きが、そんな感じだったもの」
「そうだよ、……ああ、そうか、そうだよね、ごめん」
ちょっと、息をついた。
僕はあまりに日常的にNeco言語にふれている。日常言語よりずっと、使っているかもしれない。べつにNeco言語にそんなそこまで特化しているわけではない。専門家なら僕のほかに世のなかにたくさんいる、当然だけれど。……僕を担当してくれたあのNecoゼミの変人教授も、当たり前だけれど僕以上にNeco言語はできたのだし。
じゃあ、どうしてあまりに日常的にNeco言語にふれている、と思うのかというと、逆に僕は日常生活においてあまりに日常言語を使わないからだ。
相対的に、必然、Neco言語の占める割合が、多くなる。
ここしばらくは、Neco言語でNecoに話しかけることがやたらと多かったから、なおさらだった。……けれどもほんらいはナチュラルに言うような言語でもないのだ。わかっている。そんなことわかっているのに、僕は思わず、Neco言語でつぶやいていたというのか。
……すがりたかったのかもしれない。
あるいは。認めたくは、なかったけれど。
人間相手には僕はなんにもうまくできない。
最低限のことを、説明するのも。相手の感情を、汲み取ることも。対話を、受け取ることも。
……人間相手のコミュニケーションなんて、なんにも、なんにも、うまくできない。
けれども。
Neco相手ならば、そういうのが、そういうもどかしさ、つっかえたものが、……きれいに、なくなってくれる。
僕は本音をすんなり言えるし、Necoの思考は僕を、ふしぎと傷つけない。呆れたり、怒りたくなったり、思わず言い返すことは、あるけれど、――つまりしてそれは対等に話ができている、ということで。
……だから、思わず言ってしまったのかもしれない。
彼に、わかる言葉で。
彼をプログラミングするために、……彼と話すためにつくられた言語で、僕は、思わず、すがるかのように――。
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