ふたつの怯え

「進化生物学者たちと、国立学府での生物学者たちは、対立していた……」


 なかばひとりごとのようになってしまった僕の言葉も、葉隠さんはめざとく拾った。


「そう。もっとも対立いうのは、外部の人間から見たときの話やね。私らから見れば進化生物学なんてな、あかん、あかんて」


 葉隠さんの言葉も、最後はひとりごとめいて――。




「……それと」


 僕は勇気を振り絞って、さらに訊く。


「パラダイスモデルというのは、いったい……」


 それは、ミサキさんも言っていたことだ。

 似たようなことを。原始の楽園、と。そんな言葉を用いて――。


 葉隠さんは、どうしてか。ふいに真顔になった。

 いや、真顔というのも、また違うのかもしれない。無表情。あるいは、冷淡。どちらなんだ。僕には、見分けがつかない。……ああ、やっぱり、そうやって、また不自然な風が吹く。いま目の前にいるひとの、真っ直ぐな黒髪を不自然に揺らす――。


 泣いて、すこしすっきりした様子の守那さんが、指で自身の涙を拭って説明を引き取ってくれる。


「……進化生物学者たちが達成しようと思ってた、世界のひとつのモデルだよっ。国立学府では分野問わずに、世界観――言い換えれば世界モデルの開発をしてることは、来栖さん、知っているでしょう?」


 いや、知らなかった。けれども知らないと言って話の腰を折るのも嫌で、……僕は、曖昧にうなずく。肯定、と守那さんは取ってくれたようだった。


「パラダイスモデルっていうのは、けっきょく異端とされたけれど、あのひとたちが目指していたのはすべての生物がひとつになること。……純粋古典的な生物のスープに、私たちがみんな戻ることを目指していたの」

「……純粋古典的な、生物のスープ?」

「原始のスープとか有機的スープとか言われたりもしていたみたい。でも現代生物学では生物のスープってふうに言いかたが変わったのよ。……生命の起源はこの星のいちばん最初に漂っていた、有機物と呼ばれるものがね、あっ、来栖さん、有機物ってわかる? 生物学用語だけど」

「最低限のところは。用語の定義くらいですけど、高校ですこしやりました。詳しいことはわかりませんが……」

「あっ、そうなのね、よかったあ。高校までって現代生物学とか科目はあるけど、ぜんぜん教えてないなあって思うんだけど、そっか、そうなのね、じゃあ話を進められるね」


 笑う守那さんは、相変わらず幼い印象――けれどもそれ以外のところでは、このひとも、たしかに生物学を専攻したひとなんだなといまさらのように思う。


 笑顔になって。背中に、腕を回して。ぴょこんと、跳ねて。

 無邪気に、無垢に。笑顔を向ける。そうしてその目が唐突に目一杯に見開かれた――反射的に僕はおそろしくなる。ぞっとする。なぜなら、その目は、……あまりにも空洞みたいに見開かれていたからだ。



「だから進化生物者たちが目指したのは、すべての生命をどろどろのスープに戻しちゃうことだったんだよ」

「……すべての、生命を」

「そう。すべての生命を。細胞単位で壊して、壊して、壊して。溶かして、溶かして、溶かしてねこう、そして壊して溶かしたあとは再構築するの。どろどろの、液体のかたちにね」

「……液体の、かたち」

「生物のスープにはすべての生命体が入っていて、全部であって、同時にひとつ――進化生物学者たちは、そう主張したんだよ。……異端だけどね」


 ……生物のスープ。

 そもそもにおいて。


 ミサキさんは。

 そのようなことは、言っていただろうか――?


 ミサキさんが僕に隠しているだけなのかもしれない。

 ほんとうは進化生物者たちの目指しているところは、そこなのかもしれない。


 けれども、ミサキさんを探して直接そう尋ねることも憚られた。

 だいたいミサキさんにどう尋ねればいいんだ。ほかのひとから、進化生物者たちのほんとうの目的を聞きました、とでも切り出すのか?

 ああ。こうして。うまいこと、尋ねられないから。だから僕は、いつもどうしていいのかわからない――。



「とんでもないことだよね」



 守那さんが、ふいにぽつりと言った。



「とんでもないことだよ。生物のスープなんかになったら、私たち、自分と他人の境界線がなくなるということじゃない」



 なにかが、おかしい。このひとの、……様子だろうか。



「私が私の境界線をなくして、他人といっしょになるなんて! おぞましい! 進化生物者たちって、ほんとうにおぞましいんだから!」



 守那さんの目は、ますますかっと見開かれる、……説明を求めていただけなのに、どうして。どうして、こうなる。僕のせいなのか――?



 うまく、反応できない。

 相槌さえも、うまく打てない。




「ねえ来栖さんもおぞましいと思うでしょう? 思うでしょう? 嫌なのよ。他人と自分の境界線が、曖昧になるって。理解できない。許せない。そう思えば今回のこの件だって世界と公園の境界線を曖昧にしたという意味において私は許せなくて――」

「……まあ、まあ、美鈴ちょっと落ち着き」


 葉隠さんが、守那さんの肩を抱いて、背中を優しくさすった。守那さんは気づけば泣きじゃくりはじめている。……目を見開いているときの、おそろしいほどのなにか気配や圧倒されるものは、消えて、……両手を目に当てて、小さな女の子みたいに泣いている。


「来栖さんも、悪いなあ」


 葉隠さんは、その優しい手つきからするとちょっとぞっとするくらいの冷たい視線を、うかがうように僕に向けてきた。


「美鈴な、ちょっと病んでしもうてるんや。わかるやろう? ……国立学府でさんざん、された。私も里子も参ったけども、……美鈴はもっと、社会的に参ってしもうたんや。ほんと、あかん、あかんて、とんでもない。このままこの子、精神の回復がなかったら、……どないしよう」


 葉隠さんは、僕を見て。

 そして南美川さんを見下ろして、唐突に口を開いた――笑ったというよりも、口を裂いたかのように。



「……憎いなあ。当然よなあ。美鈴だって、だれかにわかってもらいたいと思うよう、なる。当然や。……美鈴、だいじょうぶやからね、お薬飲もうか……」




 ふと見下ろすと、……南美川さんは、伏せていた。

 まるで、なにかに怯えるように。自分自身のせいで病んだ人間が目の前にいることに対して、そうするしか、できないとでもいうかのように――。

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