ミサキさんの語る、楽園のおはなし(1)

「……ねえ、お若いかた。生物の進化って、どうやってなされていくか、ご存じ?」



 ミサキさんは、こちらを振り向いて言った。両手は天にかざしたままで。その不自然なほどに長方形な棒状の光も、そのままで。だからそれを受ける両手もそのままで――そしてやはりきれいなのに蛇のような顔を、横顔のようにこちらに斜めに向けてきて、……愉快そうに、このおばあさんはそうやって僕に問いかけてきたのだ。



 生物の、進化。僕はそうつぶやいた。いやほんとうはつぶやきのつもりなんかじゃなかった。相槌の、つもりだった、せめて。けれども結果的に完全なるひとりごとみたいに響いてしまったように思う。

 でも。生物の、進化。それに対して僕がそれ以上のなにを言えただろう。それ以上のなんの意味ある返答をできただろう。生物の進化、と言われて。生物の進化、なんですね、と。せいぜいそれが上限だ。それ以外のことはなにも言えない。僕は、なにも。僕の専門ではないということも、もちろんある。でも、それ以上に、いまのミサキさんは――




 怖い。




「知らないなら、教えてあげる」



 くふふっ、とミサキさんは笑った。艶めかしく、どこか色っぽく……その柔和な外見とのギャップに僕はまたしても背筋が強張るような感覚を覚える。




「あのねえ、生物の進化というのはね、お若いかた、最終的にはひとつを目指すの」

「最終的には、ひとつを目指す……」

「そうよお!」



 唐突に、ほんとうに唐突に。

 皺のある顔に、満面の笑顔。とても好意的に捉えればあるいはそれは満面の笑み、とでも形容できるのかもしれない。計算され、調和され。イラストでも描くときにはこれが満面の笑顔なんですよなんてお手本にされそうだ。

 しかしつまりは、それだけ作りものらしいということでもあった。そして、この状況で、このひとがそんな作りものめいた笑顔を見せれば、……恐怖を煽る原因にしかならない。

 それに、その笑顔は、やはり、あまりにも唐突だった。

 脈絡がないのだ。ぎょっとする。急で、こちらとしては驚く――そのようにしてこのひとはなんだかいつでもくるくると雰囲気を変えている。そんな気が、……してきた。



 ミサキさんは一歩、こちらに歩み寄った。そしてすこし前のめりな体勢で、熱っぽく――。



「生物というのはもともとひとつだったの。そのことはご存じ?」

「……いえ、僕は」

「そうなのねえ、そうなのねえ。いいのよ、……世界の大きな秘密のひとつだものね」



 くふふっ、とミサキさんは、なおも笑った。



「でもね、じゃあね、教えてあげる――」





 そうしてミサキさんは語りはじめた。なぜだかほかにだれも来ない広場、そばに人もいない広場、葉隠さんたちのこととか僕は気になるけれど、それでも、このひとの話を聴き終えるまではたぶん一歩も背中を向けちゃいけないというある種の危機感をもってして――。





 生物は、はじめはひとつだったの。

 そして生物は、最後はひとつになるの。

 はじめと、最後が、ひとつということは、究極はひとつということよね。

 生物は、ひとつ。

 そうあるべきだし、ほんとうはいまも、そうであり続けているはずなのよ。

 ただ、些末なことが――私たちは守れなかっただけだわ。ひとつであり続けることを、……原始の楽園から遠くきて、すこし忘れてしまったのね。


 私たち進化生物学者はそのことをよおくわかっていたの。

 よおく、よおくよ、お若いかた。

 いまの人類、ううん、……楽園から追い出されたあとの人類はずっと、おかしいって。あるべきすがたじゃない、って。ひとつであるべきなのに、いくつにもなろうとしているから、おかしいって――。


 ……え?

 楽園って、なにかですって、お若いかた。それに追放って、……なるほどねえ、うふふ。

 あなたも忘れてしまっているのね。

 でも、いいのよ。みんな、そうだもの。

 私の娘も、憎らしい娘の旦那も、孫も、かわいいかわいいワンちゃんも。

 みんな忘れちゃってるんだもの。

 みんな、自分たちがどこからきたか忘れているの。

 それが、ふつうなのよ。――だから私はゆるそうと思ってたんだ。余生を、あのまま、暮らしてね……でも奇妙ね、こうやってお若いかたに、真実を伝えるときがきた、……奇跡と呼んでよろしいのかしら。



 あのねえ。

 ほんとうのことを教えてあげる。

 楽園という場所があったのよ。

 神話上のとか、伝承上のとか、お馬鹿な劣等人文学者が言うようなことでは、ないのよ。

 楽園はあったの。

 ほんとうにあったのよ。

 すべての生物は、そこからやってきたの。



 ううん、というより、楽園はイコールで生物そのものなのね。

 もちろん人間も含まれる。



 だから、私たちは――進化生物学者と世では呼ばれた私たちのグループは、……人間をあるべきすがたに、楽園そのものにかえそうと、必死で活動したグループだったの。……ほんとうよ? ご存じないかもしれないけれど。私たちのグループは、だって――悪なる意思に、滅ぼされたのだから。




 ……いいえ、ネコさんではないわ。あのかたは、わかってらっしゃったもの。あのかたがわかってらっしゃっていること、私たちはみんな、わかっていた。わかっていたの。

 ネコさんにわからないことなんてあるわけがない、じゃない? ネコさんは、アイドルよ。すべてをわかってらしたのよ。もちろん、進化のことも。罪のことも。……ネコさんが、お邪魔をしてくるわけがない。そう見えるのだとしたらそれは、――ほかの力が、働いているのでしょう?



 だから――ネコさんのせいじゃないのよ、悪なる意思は、……もっと、ほかのところにあったの。

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