進化に、神が微笑んだのだと

「でも、こんなおばあさんのことも心配してくれるだなんて。……あなたお若いしネコさんの人工知能のことで活躍していそうだったから、私のことなんか、忘れちゃったと思っていたわあ」



 そんなことを言って、ミサキさんはにこりと――出会ったときの柔和な印象そのままに、でも若干やっぱり強気な印象が加わったようなその顔で、にこりと、そう音が鳴りそうな笑顔で、……笑った。



 ベージュの服は、そのままだ。ひと晩経っても、一見なにも変わっていないかのように見える。いい意味で、だ。きれいなままに見えるのだ。

 でもよく目を凝らすとところどころに汚れがあるのに気がついた。ちょっとほつれたところや、埃っぽくなったところ――それらはミサキさんのはたして、……ひと晩の行動の、結果なのだろうか。そう思ってこのひとの素性を思えば、やっぱり――ぞっとして。



 そんなことを、たしかに、気持ちとして感じているのに。



「ご無事、だったんですね」



 そんな言葉しか、僕は言えない。

 ありきたりな反応しか。

 そんなことは、さっきとっくに確認しただろう。わかる。そのことくらい、承知している。だが、――僕の劣ったコミュニケーション能力は、そんなふうに確認を反復するくらいしか能がないのだ、ああ、まったく、……嫌になるほどに。



 しかしミサキさんは、そんなことも気にしていないかのように微笑む。気づいても、それを出さない。そうでなければ、……気づいていない。そんなことは。僕の些末な感情の動きは――。



「私がこんな状況で、元気でないわけ、ないじゃない?」

「……こんな状況、って」

「進化生物学者にとって、ここはパラダイスよ」



 ――ぞくり、とした。

 理屈ではない。理屈を解したのは、この一瞬後だった。

 だから、それ以前に。それ以前のレベルとして。……進化生物学者にとってここはパラダイスよ、と言い切ったこのひとの、ようすは。



 おそろしかった。

 おかしかったからだ。




 その表情は笑顔としてとれなくもなかった。

 よっぽど好意的に見れば、ということだ――たしかにその目は三日月をひっくり返したようなかたちで、たしかにその口は三日月そのもののようなかたちで。頬は紅く、視線はひとを捉えて離さないなにかをもつ。

 完璧に近い笑顔の条件をもっていながらして、そこから、いままでこのひとにあったと思われていた柔和さやら、思いやりめいたものをすべて取っ払って――そしてぽっかり空いたところに、ひたすら狂気を注入する。……そのようにして、やっと成り立っている表情なのだと思えたからだ。



 三日月をひっくり返したようなふたつの視線は、瞳孔が異常なほど収縮しているように見えて。まるで蛇のようで。

 三日月そのもののようなかたちの唇のあいだからは、赤いなにかがちらりと覗き。それは舌なのだろうけど、やはり蛇がちらりと舌を覗かせているかのようなようすに、酷似し。

 その頬は過剰なほどに赤い。

 ……その視線は、僕をがっちりと掴み――離さないわよと、訴えていた、……年齢にふさわしくない、立場にもふさわしくないような、いや、僕がそんなことを考えているだなんてお見通しとでも言わんとばかりの、異常な色気で――僕を、捉えていたのだ。



 そんなようすで、言った。

 言い切った。

 パラダイスよ、と。




 ……進化生物者にとって、ここはパラダイスよ、と。




 異常な色気、と思った。

 しかしほんとうはちょっとだけ、違うのかもしれない。

 ……薫るようななにかだ、これは。それも、鼻を塞いでもけっして容赦はしてくれないかのような――。



 ……異常な、色香。




 パラダイス。漢字で書くならば、楽園。

 たしか高柱猫の演説のひとつもそのワードが使われていた。

 理想めいたとか、もともとのとか、あるべきすがたのとか、そういう印象のワード。

 そして、それ以上のことを僕はたいして知らない。パラダイス、楽園について――。



 たぶん、神話的ななにかにソースがあるのだろう。でも現代において趣味でもなければ神話なんてふれる機会はない。趣味としたって、よっぽどオールディな趣味だ。あんまり聞かない。あるいは南美川さんは、……その手のものごとが、好きなのかもしれないけれど。


 けれどもそれだって趣味の範疇だ。

 まさか公の場において、いや、あくまでここを、……あくまで他人をかかわっているという一点において。公的、つまりパブリックティと捉えれば――という話では、あるけれど。



 すくなくとも、僕は。

 そんな言葉をふつうめいた会話でふつうみたいに言い出す人間に、はじめて出会った。

 パラダイスだなんて概念を現代的な科学と並列みたいに並べる人間に、いま、出会っているのだ、僕は。




 僕は、言った――。



「……パラダイスって、あの、僕はたいして詳しくも、ないんです」

「ええ、ええ。でもねえ、いいのよお、お若いひと。……ここをつくったひとはね、ぜったいにわかっているはずだもの。ええ、ええ、……ええええ、進化生物学者の理想すべてを、よ」




 ええ、ええ、と上品なはずの言葉は、言葉の勢いでくっつくと、こんなにも衝動的で興奮した響きになることを、僕ははじめて知った。

 ミサキさんは、にっかりと笑った。にこり、でもない。にっこり、でもない。……にっかり、と。そうとしか、形容できなく――。




「ここをつくったかたは原始の楽園というものを正しく理解されているはずなの。進化に、神が微笑んだ。――進化生物研究は正しいのですから続きをなしなさいと神はおっしゃってくだすっているのだから!」




 ミサキさんは。

 天に向かって、両手を広げた。




 そこに、不自然に、ひとつの棒状の眩しい光が降り注ぐ――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る