コミュニケーション
近づいていくと、ミサキさんは、向こうから先に気づいてくれた。
軽快にスキップするみたいな足取りをいったんやめ、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
そのまま、こちらを見続けてくれる。穏やかな顔で。優しい顔で。なにをしてもだいじょうぶよ、待っているからね、とでも言いたげな顔で――ほんとうの祖母のようなそんな表情を、して。
近づいて、お互い立ったままの体勢になった。
ミサキさんは、歳でほんのすこし背が曲がっているというせいもあるのかもしれないけれど、やはり僕よりは小さい。当然のごとく。
でもずっと年上の雰囲気がやはりそこにある。――ずっと年上のひととして、僕のなにか行動を、待ち構えていてくれる。
ミサキさんの、正体、とでもいうべきもの。
それを知ったあとでもなお、……表面上の印象は、かくも変わらないんだなと思った。あんなにも、喧嘩したところも目の当たりにしたのに――。
たぶん、このまま黙っていても、ミサキさんは先になにかを言ってくれる。気を回して、なにかを言ってくれる。そのことが充分、はっきりわかる雰囲気だった。だから僕が先に言わねばいけないと思った。なにを、というのはまだわからない、でも、なにかを、はっきりと、ぜったいに――そう思うのに言葉は出てこない。喉の奥が、……まるでなにか詰まってしまったかのようだ。
言葉が。気持ちが。こんなにも。つっかえる――。
「……おはよう。お若いひと」
けっきょく、先に、言わせてしまった。僕は失望を、もちろんミサキさんに対してではない、ほかのなにものに対してでもない、……自分自身への失望をまたこんなにもクリアに感じながら、それでも、言ってもらった言葉には返さねばいけないとどうにか口を開くのだ――。
「おはよう、ございます。……ミサキさん」
「あら。こんなおばあさんのお名前を、覚えておいてくれたの?」
「……たくさん、しゃべらせて、いただきましたから……」
忘れる、わけがない。公園に来ていたとき、いつも話しかけてきていたのだし。そのあと、……正体を、知っても。いや、知ったからこそ。忘れるわけがないのだ。
こんな、存在感のあるひとを。そんな、正体を、背景をもつひとを。だからミサキさんはわざと言ったのかもしれない。わからない。僕には、そのあたりの人間の機微は。
でもミサキさんはわかったうえでそう言ったのかもしれない。もしだとすると、ミサキさんは、……このとんでもなさそうな事情を抱えていそうなおばあさんは、僕に対していったいいまなにを求めていたのだろう。いや。もしかしたら、なにも求めてはいないのか。わからない。……わからないんだ。あいさつひとつ、とってみたって。……僕にはほんとうはなにもわからない。
だから、こんなに、人間どうしの関係というものがわからないなかで。
それでも、こうやってかかわっていかねばならない――その事実に圧倒されて、ふたたび、……すべてを覆ってへたり込んでしゃがみ込んで、ふとんのなかに縮こまって、ずっと、ずっと、……ひきこもりたく、なってしまう。
ミサキさんは、このひとは、他者はわかっているのかいないのか。いや、おそらくはわかっているのだろう。僕がわかっているだろうと思うはるか上のレベルで、ひとというのは、人間というのは、わかるのだろう。なにかが。いろんなことが。得体の知れないことが。僕にとっては、まったく得体の知れないことが――でもそれは僕にはわからないのだ。わからないけど、……こうやって降りかかってくるのだ。
たとえばしゃべりかけられたら返事をしなければならない。
たとえばコミュニケーションをするためには、差し当たって、とりあえず、……言語を交わして、会話をしなくてはならない。
僕は、そんなことを、……ぐるぐる、ぐるぐると頭のなかで抱えながら、でも、言わなくちゃという一心で――どうにか喉から、意味ある音を発する。
「……心配、しました」
「……あら、いやだ。だれのことを?」
伝わらなかったのか、いや間違えたのか――すでになかば絶望しながら、僕は、それでも、……気持ちが絞りかすになるまで絞りとってでも、続きの、言葉を、つなげていく。
「……それは、もちろん」
「もちろん?」
「貴女のことを……」
「――あらいやだ。もしかして、この私のこと?」
僕は、……なにを。
「……そうです。ミサキさんを……」
「あら、あら、あらあらあらあ」
ミサキさんは、目を見開いている。まんまるに。……どうしてだろう。僕は、いったい、……いま客観的に見て、なにをしているというのだろう。
僕は、なにを間違っている?
いやたとえ間違ってなかったとしても。
僕はなにを間違える可能性がある?
僕は、どこで、……どこで、
いつも、間違えはじめてしまっているんだ?
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