人権制限者たちを逃がしてゆく

「……でも、でもっ」


 影さんは涙のいまにも滲みそうな目で、葉隠さんを見上げた。葉隠さんは冷静――ゆえにか冷たくも感じられる視線を影さんに落とすが、いちおう話を聞く気は、ありそうだ。


「ここには、人権制限者たちがいます。私は、このひとたちを、守らなければいけません。ほかに責任者がいないいま、私はもっともっと、守らねばいけません。だから離れられないのです」

「……あんなあ、そちらさんのおっしゃる、人権制限。こんなときまで、する必要ありますのん?」


 葉隠さんは、長い黒髪を掻き上げながら呆れたようにそう言った。

 え、と影さんは口を中途半端に開けたまま、静止する。


「答えて、あんちゃん。する必要、あるんですか? こないな非常事態なときに、そないなこと」

「……あります。ありますとも。だって、それが仕事です」

「あんちゃんらのお仕事いうんは非常事態でもおこなわれるもんなんやね。たいしたもんですわ。まっとうな組織だったらふつうこないなときには通常業務を解除するのがまともな社会性とされてますのに。人権制限のお仕事いうのはそうもいかんのねえ。そのストイックさ、とても真似できまへんわ。尊敬しますわ」


 葉隠さんはやわらかい声で、しかし若干早口でしゃべりながら、そうしてまったくもって穏やかとは真逆の感情を感じさせる表情を見せる――皮肉っているとか、馬鹿にしているとか、……あるいはその結果脅しているとか、そういう表現がぴったりの、表情。


「いまの最高責任者っていうのはあんちゃんなんやろ」

「はい。そうです。私が、いまは、最高責任者です」

「判断の責任もすべてあんちゃんにあるっていうことやな」

「そうです」

「――非常事態にご自身らの誇りを守るために社会的に重大な損失を出したとしたら、その責任をとるのも、あんちゃんなわけよな。かっこいいわあ。自分が人間でなくなるくらいの、そないな覚悟をもって、お仕事されてはるなんてなあ」

「……どうして、そうなるのです」

「このままやとみんな死ぬで」



 葉隠さんは、満面の笑み――あるいは満面の笑みにかぎりなく近い表情を、見せた。



「やから私はみんなを安全な場所に集めようとしとる。非常事態にはみんなで身を寄せあわなあかん。死ぬ可能性が低くなりますやろう。……でもあんちゃんはご立派な職業上、それを拒否されはるんやもんな。あとで責任を問われるのは、必然です」

「……責任を、問われたら、どうなるのですか」

「そこまでは知りませんえ。やけどまっとうな人間でいられなくなるやろうなあ。そのらへん覚悟で、されてはるんやないの?」

「違います。私は、知らないから。いろんなことを、知らないから。でも、お仕事だから。お仕事は、ちゃんとしないといけない、って。私の。……私たちの。目的が。果たせなくなるから、って。だから、私は、守る。言われたことを、守る。それだけ。それだけなんです。それなのに、どうして。私は。いまは。彼がいないから、わからない――」

「わからないんやったら私の言うことに従っとき。……そやったら、あとで言いわけするときにだって多少は私のせいにできます」


 影さんは、驚いたように目を見開いた。

 僕は、見ている。静観している。……そこまでの個人的リスクを負ってまでどうにかしてみんなを逃がしたい、そんな葉隠さんのことを、ほとんど微動だにしないでじっと見ている、だけだ。


「……あなたのせいに、して、いいのですか……」

「ええよ。そうでもせんと、埒が開きませんから」

「どうして、そこまで?」

「そうしなければいけませんから」

「そうしなければ、いけない……」



 影さんは、復唱した。その響きはそのひとにとってなにか重大な意味をもっているようだった。だから、つぶやいたのだろう。そしてその特別な感触をも、確かめたようだった。

 ……次に目を上げて葉隠さんを見たときのそのひとの顔は、たしかに、違っていた。それまでとは、異なっていた。まっすぐと、なかば陶酔するかのように――そのひとは、葉隠さんを見上げていたのだ。



「……あなたのことも、カルほどではないですが、信用に足る人物と認定します」

「それはそれは、どうも。光栄です。……とりあえず早うここのひとらを逃がしてしまいましょ」

「逃がす? ……なんのために?」

「ここに縛りつけ続けていたらほぼ百パーセント、このまま死ぬでしょう。人権制限の必要上、ふだんは行動を制限せねばならんことはわかります。でもいまはそれを上回る。生命の危機です。……だから、せめて拘束は解きましょう」



 そのように、葉隠さんは影さんを説得した。

 影さんは、真剣な顔つきでうなずいていた。

 ……そして、納得したようだった。





 葉隠さんと、影さん。そして僕も手伝うことにした。南美川さんは、僕のリードでおとなしくついてきて――だからけっきょく三人の人手で、……僕たちは、順番に彼らの高速を、解いていった。

 枷の電気スイッチを外していくのだ。そんなに複雑な作業では、なかった。



 人権制限者たちのほとんどは、拘束が解かれた瞬間どこか遠くに駆け出していってしまった。

 ときには、叫び声を伴いながら。

 ……それも止めるべきではないと葉隠さんは影さんにアドバイスしていた。


 ごく一部、たった数人は。

 逃げ出さず、その場でぼんやりとしていた。

 ……逃げないならば、ともに連れていく。

 葉隠さんは、そのように判断した。




 淡々と、手伝いながらも。

 ……僕には、純粋に疑問だ。


 なぜ、葉隠さんがここまでするのか。

 ここまでする必然性は、あまりないはずだ。

 でもじっさいにそうしている。

 リスクを取ってまで、そうしている。



 葉隠さんは見ているとずっとそのようなひとだ。

 だれかを助けるために、奔走している。





 ほんとうはこの公園に南美川さんを嗤いに来たくせに――それなのに。





 ……それなのに、と思ってしまうのは、やはり僕の心が狭くて、歪んでいて、間違っている――あかしなのだろうか。

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