社会の、子どもをめぐる事情

 子どもは、気づかない。

 まだきゃっきゃきゃっきゃとしている。

 変には感じないのだろうか。

 いますぐ泣き出しそうなものだけど。

 でも、もしかしたら――まだそういったことを感じられないくらいにつまり、……幼すぎたと、そういうことなのかもしれなくて。




「わたしはころせばいいのにしねばよかったのにとおもっていたずっとうつうつうつうつしねばいいしねばいいころせばよかったうむうむうむうむいったからうつうつうつうつ」



 そこに、父の声も、加わる。



「ぼくはひつようだとおもったからそうしておろすなんてうつうつうつうつせけんていしゃかいめんけいざいりんりふひょうばんぽいんとしゃかいぽいんとなくなるとうむうむうむうむしなくてはいけないって」

「でも! しゃかいぽいんとなんてこどもなんかひとりそだてたところでうつうつうつうつ」

「でも! ころしてしまえばしゃかいぽいんとないないないないいやいやいやしゃかいぽいんとほしいほしいほしいしゃかいぽいんとないとしぬしぬしぬしぬしぬ」

「しなない! じゆうがしぬ」

「じゆうがいきたところで! ひょうかされないされないされないしぬしぬしぬしぬしにたいしにたいしにたいこどもころせばしぬしぬしにたい」



 ……その、会話は。

 もしかしたら、だけど。……彼らにとってずっと繰り返されてきたものなのかも、しれない。


 もちろんそうまで奇妙な言葉と発音ではなくとも。

 もちろんそのような化けもののすがたではなくとも。

 もちろんほんらいならばもっと正常でまともな言葉と論理と雰囲気のもとであっても。




 彼らにとって、その問題じたいは、繰り返され続けてきたことだったのかも――しれない。



 ……子どもができれば、原則産む。

 可能であれば、できるかぎりのデザインを出生前に施したうえで。

 なるべく、優秀な子どもを、ひとりでも産む。

 育てる。

 ……ひとりでも、社会人を生産する。それもなるべく、いけるところまで、いける、優秀性を付加したうえで――。


 ……子どもができてしまえば基本的には産むべきだとされる。

 人間のもとだから、というのもそうだし。

 ひいては社会人、優秀者になるかもしれないから、というのもそうだし。


 かりに劣等であっても、その場合は検体としてとか、臓器として、実験体として――どこかの研究所にでも売り払ってしまえばそれで済む。ヒューマン・アニマルとして売ってもいい。人間家具にしてしまってもそれなりの儲けになるだろう。優秀者の所有する奴隷労働者という手もあるのだ、その場合はその子どもが生涯奴隷労働を有益に務めるかぎり、その優秀者のおこなうことの効率を上げたということで、優秀者から生涯感謝という名目での謝礼や贈答品や社会的な特権を得られるだろう。


 そういう意味では、社会においては。けっきょくのところたまには劣等な子どもというのも必要で、……それはそれでそうそうたくさん得られるものではないから、たとえひとりでも、貴重で、だからそういう材料の損失を減らすためにも基本的にはできた子どもはすべて産むことが社会的に推奨される――。



 もちろん、自由意思は尊重される。

 あくまでも建前上においては、できた子どもを産むも産まないも、その人間たちの自由だ。

 ……人権に制限のかかっている場合は、無理やり産まされることもあるけれど、すくなくともそういうケースでなければ、中絶するということは社会的に許されてはいる。ただ、それはほんとうに、建前上の話でしか、ない。


 子どもは、結果的に人間になるにしろ、それに満たずに、実験材料などになるにしろ。

 社会の財産、というのが社会の常識だ。

 子どもばかりは効率的につくれない。

 科学技術の熟成したこの現代においてさえ、大量につくることはまだできないのだ。

 ……大量につくろうとすれば、たいてい事故につながっている。そう。それこそ、影さんたちの、……千住観音体人間だって、ある意味では、人間の大量生産行為へつながることだったのだろう――現代においてはいかに人間を大量に生産していくかというのは、ある種の超優秀研究者たちの、夢であり、野望であり、ぜったいにだれよりいちばん早く、達成したいことなのだ――そんなことが実現されたらその科学者は生涯社会においての栄誉を得て、社会評価ポイントは累乗的に増えてほとんど天井などなくなり、財をその一身にだくだくと集中させることが、できるだろう。



 だから子どもというのは中絶してしまうともったいないのだ。

 もったいない。そう。……もったいない。だからその種の科学者たちは、政治運動を起こしていま結果的に中絶にはペナルティを課すことに、している。

 つまり社会評価ポイントを下げるのだ。

 その真逆に、産んだ人間には、ちょっと色をつけて――社会評価ポイントを、与えるようにしているのだ。



 優秀者にとっては、知らないけれど。

 相対偏差五十前後、あるいは、そのもっと下の人間たちにとって、その影響はけっして無視できるものではない。


 子どもを中絶するということは前科がつくようなものだ。

 そう言った最先端社会学者もいた。

 そしてその言葉には多くのひとびとが賛成して、その多くは――やはり優秀層ではない人間だったと、なにかのニュースで見たことがある。



 だからひとびとは子どもを産もうとする。

 無理をしてでも、できてしまえばたいてい産む。

 子どもを産むのには、コストがかかる。お金も、時間も。

 そして産んですぐに売り払ってしまえるものでもない。その子どものある程度の適性や能力が見えてくるまで、すくなくとも幼児期前半くらいまでは、たいてい産んだ人間が親として育てる。優秀も劣等も見えない時代だからだ。その段階の赤子を引き取りたがる研究者は、あまりいない。


 がんばって産む。

 どうにか産む。

 そしてできれば劣等であってほしい。なにか先天的で困難な疾患でももっていてほしい。そうすれば、売り払える。だからせめて売り払える基準までは、劣等に――そういう切実な望みを抱いて、優秀でもない、お金があるわけでもない夫婦は、……じっさいに、子どもを育てていく。そういうことは、なんら、珍しいことではない。





 そう、珍しいことではない。よくあることだ。……それゆえに。




「だってだってだって!」

「しぬしぬしぬしぬ!」

「あんたがあんたがあんたが!」

「ころすころすころす!」





 いま、言い争いをしている、あの父と母のようなひとたちが、その感情が、……できあがってしまうのではないか、と。僕自身は子どもなんてもつ気は皆無だから、深く考えてみたこともなかったけれど、でもいざ目の当たりにすると、つまり、これはそういうことなんじゃないかと――思う。

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