鯨のような

 VR世界の可能性もあると思う、と僕が同意したので、いったんなにか満足してくれたのだろうか。葉隠さんは空から僕に視線を移して、ほう、と感心したとも安心したともつかないため息を、ついた。


「そうよねえ」

「はい。あくまでも、可能性……になるとは、思いますが」

「でもこの世界ってふつうであらへんもの」

「……そうですね」


 VR世界の可能性と、この世界がふつうではないということ。

 それらの関連性をなにか葉隠さんは見出だしていたようだったが、……この人がどのように考えているのか、その思考、そこまでは、正直、わからない。そしてわからないとしても、葉隠さんにわざわざ――それをたしかめるような勇気は、僕には、ないのだから。



 風に乗って、泣き声が聞こえてきた。泣いて泣いて泣いて、しだいに嗚咽さえも響かなくなってきた、影さんの泣き声ではない。被るけど、聞き分けられる。すこし、距離のあるところから……おそらく背中に植物の根を生やされた、小さな子どもが、赤ちゃんが、……泣いている。赤ちゃんにしては弱々しい声で、ほんとうは泣きたくなんてないといったばかりに、でも泣かねば助けもだれも来ないから、みたいに――泣いているのだ。



「ああ、泣いてはるね」



 葉隠さんは、つぶやくようにそう言った。あやしてくる、と言ったそれは、余計にひとりごとみたいに聞こえた。どうしてだろうか。わからない。ただ葉隠さんはやはりまっすぐに、向こうで泣いている子どもを見ていた。そちらに意識がいっていた。そちらに視線が吸い込まれていた。そうか、お母ちゃんもお父ちゃんも調査に行きはってしまったの。そうも、つぶやいた。


 ……だれかが残って子どもをあやしているシートも、ある。だがいまあそこで泣いている赤ちゃんのまわりには、だれも残っていなかった。

 ……背中に植物の根が生やされたわが子を見たくなかったから、なんて考察してしまったら、僕はあまりに人間として薄情なのだろうか。そうではなくて、あの赤ちゃんの両親はあくまでわが子のことを想ってこの事態の原因を究明しようとする、親の鑑のような、ある種の義勇軍だと考えるべきなのか。……でも。そうではなかったら。そこにいたくなくて、子どもを置いてとにかく駆け出したとしたら。ありえる。……ありえるんだ。僕にとっては、そっちのほうがしっくりくる。僕は、人間は、そんなようなものだと思う――もちろんそれであの赤ちゃんの両親がほんとうはすさまじく子ども想いの理想的な親といえるひとたちであったら、……僕は、いま言ったことを、すべて否定せねばいけなくなるわけだけど。でも――。



「……あやしてくる」



 葉隠さんはそう言って、吸い寄せられるように駆け出そうとした。

 駆け出そうとしたのだ、たしかに。ちょっと、前のめりに。もうかたわらで泣いている影さんの存在なんか見えてもいないといったように。その手は、走り出すかのようなかたちで脇で振られ。その足は、いますぐにでも走り出せそうな助走で。表情は、もうそちらにばかり気をとられていて。



 だから、そのはずだったのだ。

 葉隠さんはもういまにでも駆け出せるはずだったのだ。

 でも――結果として、そうはならなかった。





 暗くなった、と思った。ふっ、と。まるでてかてかに晴れた真夏、急に分厚い入道雲があたりを暗く覆い隠すように。僕はぼんやりと空を見上げた。そして口を開けた。唖然と、していたんだと思う。でもわからない。ただわかるのは、――そこに、またしても、理解を超えたものがいるということ。




 巨大な、獣だった。さきほどの、……カル青年、表さんがそうなってしまった獣も、そうとうでかかった。でもそういうレベルではなかったのだ。鯨。そう、いま頭上に広がっているのは、巨大すぎる鯨とでもいえばいいのか。まるでほんとうの入道雲みたいな分厚さで。大きさで。あまりにも、幅広く――この広場じゅうならすっぽり覆ってしまえそうなほど。




 空気を切り裂くような叫び声が起こった。

 ギャアアア、といって、……耳が破裂するかと思った。僕はとっさにしゃがみ込んで、……南美川さんの耳を塞いだ。そんなこと無駄だとわかっていても、僕は、……縮み込むことでなにかをすこしでも回避しようとした。




 泣きじゃくっていた影さんも、耳を塞いで頭上を見上げていた。

 駆け出そうとしていた葉隠さんも、耳を塞いでしゃがみ込んだようだった。




 それほど、反射的に、もうほとんど本能的に、反応せざるをえないこれは現象だったのだ。いったい、なんだ、いったいこんどは――なにが起きているっていうんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る