すきっぷ、すきっぷ、らんらんらん
鯨は、なにかを産んだ。
紫色の粘液で覆われた繭のようなものが、鯨は空にも思えるところを飛んでいるという高低差をものともせず、ボトリ、と落ちてきた。ほとんど、垂直に。
……その、紫色の粘液。見覚えがある。たしか、さきほどの植物人間が喰って喰われていたときにも。別の生物のはずだ。でもなぜか奇妙に、その紫色は共通している。どういうことだ。やはり、なにかの意図が絡んでいるのか――。
思考をそれ以上続けることは不可能だった。
なぜならその繭はあっというまに弾け飛んだからだ。中からは、……やはり紫色の粘液にべちゃべちゃと覆われた人間、いや、……人型のなにかが、出てきた。
人間ではない。でも、人型のなにかだ。
人間のかたちをしているが、身体全体が紫色の粘液になっていて、まるで焼けただれてしまった人のよう。顔の造形もほとんどわからず、ただ目のくぼみと奇妙に広げられた口のかたちが、黒々と見えるだけだ。性別も、年齢も、わからない。もはやそういったレベルを、超えてしまっている。
歩き方にも知性や明確な意思といったものは感じられない――すこしずつ、すこしずつ足を引きずるように進んで、……そのたび、粘液が、草の上にボトリボトボトボトリと落ち続ける。
しいて、知っているなかでたとえるならば。映画やゲームでよく見る、ゾンビという生物。それがいちばん似ているかもしれない。でもゾンビにしては湿りすぎているし、ゾンビにしては、――楽しそうすぎる。
やけににやにやとしているのだ。くぼんだ黒い空洞がみっつあるだけなのに、それが明確にわかる。なぜ。なぜなんだ。笑っていると、――明確にわかる、その空洞のみっつのうごめくような動きだけで。
そして、なにかを言っている――聞き取れない、ただの呻き声に聞こえる。でも楽しそうで。それはまるで赤ちゃんがなにもわからずでも心地よく、はしゃいでいるかのようで。ただし、その声が――そんなに声帯がすべて焼けただれてしまったみたいにあまりにもガラガラと掠れきっていなければ、だけれども。
僕たちすべてが、そして広場の人間が、声も出せず固まって縮こまってとにかく、呆然としているあいだに。
頭上の鯨は。
もうひと鳴き、したあと。
もうひとつ、それを産んだ。
やはりおなじようにボトリと落ちてきたその繭は、やはりおなじような誕生の経過を、繰り返した。産まれ、立ち上がり、楽しそうで、なにかを呻いて――。
そして、驚くべきことに。
そのふたり、いや、……二体と言ったほうがいいんだろうけど、とにかく、それらは互いに――歩み寄り、手を差し伸べ、ダンスみたいな動きをはじめた。
いや。まぎれもなく。それは、ダンスだった。若い男女がのどかにくるくる踊るみたいな、子ども向けの映像みたいな動きだった。――彼ら自身が、そんなグロテスクなすがたでさえなければ。
彼らがすこし動くたびにそんな紫色の粘液で大地を汚しさえしていなければ。
ふたりはただひたすら見つめ合ってくるくるくるくる躍り続けた。
――殺しましょう。
聞き間違えでなければ、そう聞こえた。
ガラガラ掠れた、でも、……たぶん女性なんだろうなとわかるほどの声では、あった。ハスキーな――。
――そうだね、殺そう。
もうひとつ異なる声が、応えた。こちらもやはりガラガラではあるが、たぶん男性だろうとわかる声だった。たぶん、そんなに年老いてはいない。いやむしろ若い――。
彼らは。
手に手をとって最後にくるりと回り、にかっ、と微笑みあった。
そして、親密そうにうなずきあうと――互いに手を握ったまま、すきっぷすきっぷ、らんらんらん、と信じられないような歌詞の鼻歌を、えんえん、……えんえんリピートで歌いながら、直進しはじめたのだ。どこに、向かっている。どこに。どこかに。そうか。……どこか、それは、もしかしたら。
どこかに。
あの背中に根の生えた赤ちゃんが、ひとり泣いていたところに――。
すきっぷ、すきっぷ、らんらんらん。
すきっぷ、すきっぷ、らんらんらん。
すきっぷ、すきっぷ、らんらんらん、……と、
奇妙に重なった声で彼らはずっとずっとずっと歌い続け、赤ちゃんのほうに、ずんずんずんずん直進していく。ボトリボトリボトリと彼らの身体の一部みたいな紫色の得体の知れないモノモノを落とし続けながら。ああ、この距離でも、……臭気。
僕も、だれも、動けてはいない、……動けない。
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