モストリィ
そう吠えていや、――言って、獣は、飛翔した。
最初は跳躍かと思った。でも、飛翔だったのだ。跳んで、――そして、飛んだ。
青空に舞い上がった――あんな身体でどうやって飛ぶんだと思った。翼らしきものは見当たらない。しいて言えば肩の上の毛皮がすこしはたはた揺れている。でも、あれだけの毛皮があんなふうに動くだけであの質量の巨体を宙に浮かせられるわけもない――そうは思うがじっさいに飛んでいる。まさか、ありえない――そんなことを思っているうちに獣はもうスピードで、……ナンバーツー池に向けて、飛んでいき、やがては見えなく――なってしまった。
……影さんが、子どものように泣いていた。その場に、へたり込んだまま。
以前口枷を嵌められている人権制限者たちは魂を失ってしまったかのように呆けていた。
……喰い散らかされた跡はむしろすっきりとしたものだった。
雑木林の樹木も減って、視界が開けたみたいになっている。
上司の女性は、植物人間のふたりに喰われた。植物人間のふたりは、青年だった獣に喰われた。その胃袋に、収まった。
まるで冗談みたいなできごとだ。ありきたりに残酷で、……この生々しさがかえって嘘なんじゃないかってくらい、でも、こんなにもやはり、あたりの臭いは、気配は、すっきりしすぎて無惨な光景は、すすり泣きと呻き声は――圧倒的にリアルに、五感に訴えかけてくるのだ。
僕は、黙って南美川さんを抱き締めているだけだったけど。
そのすすり泣きを背中を撫でては撫でて収めようとしているばかりだったけれど。
……心では、やはり呻いていた。すすり泣き、というよりはやはりそちらのほうが近い。僕は、語りかけていたのだ。たったひとりの相手に。いまここにいなくて、でもだからこそいちばん責任を負うべき、あいつに。いまここにいるべきいちばんのあいつに――。
……Neco、なにしてるんだよ。
異常だ。異常事態なんだから、いまは。こんなことが起こったら通常はNecoインフラが黙ってはいない。いやそもそもこんなになるまで被害が出ない。Necoのインフラシステムは強固なはずなんだ、迅速なはずなんだ。旧時代では容易に起こっていた犯罪や事件を、そうとさせないために、構築されている。ましてやここは公立公園だ。ほんらいならば完全なるパブリック・スペースのはずだ。それがこんな。こんなことに。……ありえない。ここが、いつも通りの公園ならば、……こんなことは。
たとえばそれは人間の身体がひとり変質したというだけでも機能するべきことのはずだ。専門家が駆けつけ、全力で治療にあたる。どうしようもなければ武力が機能するはずだ。Necoは武力を用いることを嫌うが、しかし必要ならばためらわない。
いざとなったら守ってくれる。
その安心感があるから社会に生きる人間たちもいろいろ思いをめぐらせながらも、――Necoの社会のなかで生きる、Necoに従うということに、……合意している、はずなのに。
なんだ。なんだよ、このザマは。
なあ、Neco。どうにか言えよ。説明しろよ。どうしてここに、
「……Mostly《モストリィ》」
いないんだよ。どうしてここにいないんだよ――理不尽な怒りはNeco言語となって僕の口から発された、モストリィ、直訳しれば、……おおむねあなたは正しい、という意味。つまりはその、おおむね、ではないNecoの脆弱性を、突く言葉だ。Necoはほんとうに臆病だ。自分の欠点を指摘させるときにそんな、――おおむねあなたは正しいだなんて、そんな意味の言葉を、使わせるだなんて。
……ああ。そうだな。そうだよな。
だから、おおむねはいつも正しいんだ。アンタは。Necoは。
社会を住みよく変えてきた。
貧困を撲滅し、犯罪率を減らし、経済成長を促し、技術を発展させ、生活レベルを向上させてきた。人権をもつ者にはとても手厚く優しく暮らしやすい史上最高の時代、――ただしそれは、人権をもたない者もいるという前提のもとで。
だからおおむねやっぱり正しい。
人権をもたないに値する者がいる、――それさえ認めてしまうのならば、Necoはほんとうに、よいことばかりをなしてきたのだろう。
でも僕は疑問だ。
Necoは、あるいはそのベースの高柱Necoは、どうしてそこまで自分に自信をもてたのだろうか?
欠点を指摘するときに「あなたはおおむね正しいです」と言わせるようなパーソナリティの持ち主だ。
……それが、どうして、自分自身が人間に値するだなんて――まっすぐ、思えてしまったのだろう?
……僕には。わからない。
いや正確に言えば、わからなくなってきているんだ。
すこしの違和感はあれど、ほとんど違和感なく受け入れてきた社会の構造。優秀ならば人権が守られ、劣等ならば剥奪されるのです。子どものころからそう言い聞かされ、最低限どうにか社会人になれるようにとみながんばるのが当たり前。がんばれなければ、子どもであったってあっというまに転落だ。
僕だってそうだった。僕の場合はすこしばかり欲張りだった。中学校の成績がそう悪くなかったことを根拠に、優秀者を目指そうとした。だって当然のことだろう。この社会において。優秀な人間のほうが、優れているに――決まっているんだ。価値がある。重んじられる。……立派な人間になって、家族にも、かつての同級生にも、だれに対しても自慢ができて……。
高校二年生からの、僕が劣等だからという、正当性のあるいじめに対して。
おかしいのは自分のほうだと思って疑ったこともなかった。
だから自分自身で自分の存在を終わらせようとした。自分自身を畜肉処分にしようとした。
もちろん、いまでも、僕がどうしようもなく劣等なのがいけないんだということにかんしては、変わらない……けれど。――けれども。
なんの疑いももっていなかったことがすこしずつ綻びを見せてくる。
僕はNecoに間違いはないと思っていた。それはこの社会のみんながそうだと思う。Necoを信じられない人間になんて会ったことがない。まさか、社会の基盤であるNecoを疑うだなんて、それは明日太陽がのぼることを疑うみたいな常識外れだ。
でも僕はだからずっとNecoがいっしょにいてくれると思っていた。
……南美川さんの実家で。南美川化たちに騙されて、……Necoと通信できなくなっても、それは、――彼らが遮断しているせいとわかっていたから、Neco自身に責任があるとは、そりゃ、……ちょっとはそういう部分があるのかもしれないと思ったにせよ、思わなかった、……僕にとっての当たり前すぎる正しいことを疑うまでの決定打には、なりえなかった。
でも、いま。
僕たちは、僕は、Necoのいない世界にいる。
たとえそれが南美川化の仕組んだものだとしても。
……僕たちは、Necoと離れて存在することができる。
じゃあ。だったら。
Necoって、なんなんだ。
Neco社会って、Necoインフラって、……いったいなんなんだ。
つねにそばにいてくれるからこそ。その前提があるからこそ、社会が成り立っているのに。
その前提が、……もし違うとするならば。
いま、ここに、すくなくともいまここにはNecoは存在しないのだという事実があまりに重く、圧しかかってくる――。
そういう思いのすべてを込めて、だから無駄だとわかっていたけれど僕はつぶやいてしまったのだ。
……モストリィ、と。
ああ、そうだねNeco。アンタは、やっぱり、おおむね正しいみたいだよ――おおむねのところはね、という気持ちを込めて、……あまりにも抑えられなかったものを、たったひとつだけそこに乗せて、吐き出して。――南美川さんがふしぎそうな目で見上げてきたからだから、たまにはNeco言語も便利なものだと思ったり、したのだった。
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