天に吠える

 ――永遠かと思った。

 それほど、自分自身の脳裏なのか精神なのかいずこかどこかの本質的なところに、刻み込まれていくのがわかった。


 ……ある種、懐かしい感覚だった。

 なぜなら南美川さんたちにいじめられていたときにもこうだったから。

 慣れてすべてを諦めて人間としてだいじなものを手放したあとならともかく、そうなれないまでは、自分が自分を諦められていない愚かだったときには、やっぱりそれらの経験がひとつひとつ、じっくりと、火で炙るように焼きついていったのだから。


 逆に言うとそれ以来だったかもしれない。

 そのあとどうしようもないこと情けないことますます自分を嫌いになること、というのはいくらでもあっても、思えば、こうやって、おそらく自分の記憶からこれからなんども掘り返すことになるんだろうなというくらい強烈な瞬間というのは、……なかったかも、しれない。



 もちろんこんかいのほうが、ひとごとだ。

 喰われたのは僕ではない。

 そしていじめを受けていたとき、いじめられていたのは、僕だ。



 だからふしぎな感覚だった。ひとごとなのに、こんなに強烈に刻み込まれることが、あるのかと――もしかしたら理屈ではないのかもしれない。目の前で、すくなくとも建前上は同種族とされている、そしてすくなくともすがたかたちの基本構造は酷似している、人間、という存在が、喰われたり、キメラ的に異形のバケモノに、される、ということは。

 ただそれだけで強烈な経験となってしまうのかもしれない。

 経験中に、そんな予感のことまでくっきりとわかってしまうくらいに。



 そうして、しばらく、見ていたのだ。

 たぶんぜんぜん永遠なんかじゃなかったのだろう。

 でも永遠と思える時だった。はっきりと、そういうたぐいの時間だった。


 速く過ぎ去ればいいのに、この時間が終わっても、とらわれ続けることを知っている――ああ、なんだこれはほんとうに、……いじめられていたときの感覚と、たしかに、よく似ていて。違うのは自分ごとかひとごとかということだから、つまり、……自分にとってどっちのほうが重大で魂まで刻み込まれるかということもまた、自明なのだろうけれど。


 ひたすらに、南美川さんを、撫でていた。

 南美川さんは、小さく泣いていた。身体も縮め込んで、小さな声で、すんすんと、すすり泣き続けていた。

 ……このひとにとって、のほうがもしかしたらつらいかもしれない。このひとは、他人に対しては正常な思いやりのもてるひとだ。事実、高校のときだってクラスメイトたちのさまざまなできごとについてよく共感して、心を動かしていたみたいだ。

 高校や、もしかしたら大学のときもそうだったのかもしれないけれど、いじめをしていたということはまあ仕方がなかったというか、別問題だ。彼女の目に人間と映っていなかったほうが悪いんだと思う、ある意味では、そう言い切れてしまうんだと思う。

 でもいまはたぶん南美川さんにとって人間あるいは人間的な生き物ということの定義は広くなっているはずだ。無理やりそうされたのかもしれないけれど、広くなったことじたいはたぶん、ほんとうだ。

 いまや南美川さんはヒューマン・アニマルや人権制限者たちに対してさえその心を向ける。

 だから南美川さんは、植物人間にも、獣にも、なにもかもにいま思いをいたしているかもしれないのだ――そう思うと唐突にこのひとのことが愛おしくなってしまって、……外だというのに、思いきり、すがるように僕は抱いた。いまならひとが注目していないだろうと思って、強く強く、抱き締めた。




 補食の音。むしゃむしゃと。

 叫ぶ声。懇願する言葉。慟哭といっていいほどの感情の発露。……あとはただやはり、むしゃむしゃ、むしゃむしゃ、むしゃむしゃむしゃ、と。




 そんな時間が永遠と思えるほど続いた。




 ……最初にやんだのは人間の声だった。

 喰われてないよなと、とっさにようすをうかがったけれど――喰われては、いなかった。影と呼ばれるあの人間は、……もう叫ぶ気力もなくなったのだろう、獣の後ろでただただぐったりと、膝を、ついていた。


 ……やがて生々しすぎたそれらの音もやんだ。

 獣は短くしかしそれだけで腹まで響く唸り声をあげ、ふたたび世界が震えるほど咆哮した。顔を上げ、まるで気高い獣でもあるかのように――。



「……スフィンクスみたいだわ」



 ……スフィンクス。よく、ゲームとかに出てくる、架空の生物だ。

 南美川さんは、どうしてそんなことをつぶやいたのか。思いすぎてしまって、言わざるをえなかったのか。もしかして南美川さんは伝承とかが好きだから、なにかべつの意味でスフィンクスと言ったのか。わからない。僕の知識では、スフィンクスとはゲームによく出てくる架空の生物、というのが限界だ。




 呼応するように、空の一点がちかりと光った。……あれは、なんの光だ? 青空のなかにあってもなお目視できた光。まるで、その獣に呼応するかのように――なんらかの意図をもったかのように、光った。




 ……そして獣は、言ったのだ。




「僕はですねえ! ずっと、我慢してきたんですよお! ずっとだ……ずっと!」




 張り裂けるほどの声は、雑木林も地面も揺らして。

 吠えるみたいに、でも、たしかにはっきりと人間の言葉で。言ったのだ――あの青年だ、とたしかにわかる言い回しと声の、響きで。






 ……あの青年の、横顔で。

 いびつにも、奇妙にそうだとわかる。そんな、明確な横顔で――。

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