打破しようとしている

 南美川さんが、唐突に動いた。

 軽やかに。

 対して、僕は咄嗟に動くことができなかった――驚きというにもまだ自覚されていないぼんやりとした気持ちで、その背中が、四つ足が、頭が、あきらかな意思をもって動いたのを、見ていた。尻尾が、……風に揺られてすこし斜めのかたちに動く。


 南美川さんがやったことといえば、つまりここにいるひとたちを慰める、励ます、とでもいったことなんだと、思う。

 口枷を嵌められて言語さえ発せず、でもたしかに人間的な恐怖や不安や得体の知れないぐちゃぐちゃを抱いて樹木に縛られている人権制限者のひとびとのもとを、ひとり、ひとり、ただのひとりも飛ばさずにめぐって。

 だれに対しても、まずはちょっと遠慮がちに。相手が気がついてくれると、犬らしくにっこりとして微笑んで。わあうう、と犬そのものの鳴き声を出して、肉球を彼らの膝や腕に載せる。甘えるかのように。そうしてあとはぱたぱた尻尾を振っている。まるで穏やかな気持ちで、気持ちよくって堪らない、とでもいうかのように。

 人権制限者たちは年代も性別も身体的特徴もバラバラだが、しかし枷で拘束されグレーの作業着を着せられているほかにも、うつろで気の抜けた表情をしているというところは共通している。そのうつろさは南美川さん――彼らにとっては単なる一匹の人犬にすぎない彼女を見下ろすときにも、存分に見てとることができた。だから最初はずっとうつろに見下ろしているのだ。なぜ、どうして、なにが起こったのか理解できない、どうしてここに犬がいるのか理解できない――そうしてそんなうつろな時間がすこし過ぎると、……驚くべきことに、彼らは自分自身のもとに犬が一匹来ているという事実を把握したようだった。それも、かなり正確に。

 口枷を嵌められているから相変わらず言葉はしゃべれない。けれども多くのひとたちが南美川さんを見下ろして、なにか言葉を発した。うー、うー、という非人間的な声はおなじでも、そこに込められた感情がまったく異なることはその声を聞いていればすぐにわかる。恐怖でもない、不安でもない。ましてや理不尽によるものでもない。なにか慈しむような、優しく憐れむような、切なく、しかし人間らしい声――そうやってなにかを語りかけようとしながら、彼らはやがてそれぞれ南美川さんをかわいがりはじめるのだった。あるひとは、頭を撫でまわして。あるひとは、顎を軽く持ち上げてくすぐるように撫でまわして。あるひとは、そっとその背に手を置いて、ぽんぽんと撫でて……。



 たしかにこの場はすこしずつ落ち着いてきたようだ。

 人権制限者のひとびとは、……根本的にはなにも解決されていなくても、ほんのすこしだけ、落ち着いたような気が、する。もちろんほとんど変化はない。ほんとうに、ほんのすこしのことだ。でも、いちばん最初の衝撃、それが和らぐだけで――人間というのはそのぶん冷静になれるものだろう。そして異常事態においてはたぶん、……そのほんのわずかということが、命運を分ける。



 影さんは、感心したように言った。


「……元気づけてるつもりなんですかね? いじらしい、ワンちゃんです」


 僕はほとんど呆然としたような状態で、うなずいた――いじらしい、そう、いじらしい。このひとの、影さんの言う通りだ。こういうときに人を励ます。こういうときに人の気持ちに敏感で、感じとって、人のためを思って行動する。そんな獣が、たしかに犬だ。だから南美川さんの動きはこの場においてなんら不自然なものではない。むしろ自然で、……よく育てられたワンちゃんだと、きっと、それだけ。



 でも。……でも。僕にとっては、南美川さんは。



 南美川さんはそのたびちょっと目を細めて、遠慮がちに、しかしやはりあきらかに甘えているとわかるようすで、おすわりの体勢で相手を見上げ続けてぱたぱた尻尾を振り続けている。

 おそらく、客観的には。そのようすはどこからどう見ても、人間に甘える、気性のよい、かわいらしい犬そのもので、犬としてのおすわりに慣れて人に甘えるすべも知っている南美川さん、……南美川幸奈から、僕は――目を逸らした。うつむいて、……とくに意味もないだろうに、拳をかたく握ったりしてみて。周囲にわからないように、右手だけ――。



「わうっ」



 南美川さんが、大きく吠えた。見ると南美川さんは、またひとりのもとを離れ、ほかのひとを励ましに行くところだった。

 でも、南美川さんの視線はこっちを見ていた。僕を、僕だけを見上げるようにして、でも斜めの角度でまっすぐ見つめていた。僕は南美川さんを見返す。南美川さんは――意味がありげに、微笑する。

 その、口が。周囲から見たら犬の戯れでしかない微細な動きで、しかし、僕が見たらわかる、確固とした意味をもって語りかけてくる。



 ――どうにか、しましょ。





 そのちょっといたずらっぽく切ない顔と、ちょっとおどけたような口の動きで、僕は悟った。

 雷にうたれたみたいな気持ちがした。僕には、……わかったのだ。



 南美川さんは、なにも犬の戯れでここにいるひとたちを励ましはじめたのではない。あくまでもこの状況のため。もっと言うならば、なにもしない、……なにもできない僕たち、いや、僕のため。

 でくのぼうみたいに突っ立ってる僕たちの前に、動いてしまうことで。状況を、すこしでも打破しようとして。ああ。南美川さん。どうして、あなたは、いつも、いつまでも。――人犬の身となっても、そこまでのことがいつも、……いつも、こんなにも、できてしまうんだ。あなたがそうやって動いてくれるのに、僕は、なにも――なにも。

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