嘔吐
幾人かの、呻き声が、上がった。
さらに強く。
さらに強くってことは、だから、たぶん。
たぶん叫びたいんだと思う。
それは、そうだよな。
それはそうだよなって思う。
ふたつの顔はどこか、にたにた、している。
人を喰らった植物人間、樹木人間になってしまったはずなのに、妙に、にたにた、としている。
己のやったことが、わかっていないのだろうか。
そういう意味でもほかの植物人間とは違うのだろうか。最初になった男性はいちおう理性的な意識を残していたみたいだし、子どもについてはまだよくわからないけれど、すくなくとも他人を喰らうといった感じはなかった。
僕はそんなことをぼんやりと考えていた。
あまりにもふつうで当たり前すぎるような思考がそうやって自分自身のなかをめぐっていた。
叫び声も出てこないし、身体が震えたりとか、涙が出てくるようなこともなかった。
それにやっぱりこうして当たり前にほんとうに当たり前に思考しているようだ。
だから、自分は意外と冷静なのかもしれない、けっこう強いのかもしれない、そう思って余裕を取り戻すためにとりあえず口もとでだけでも笑ってみせようかなんて、ふだんしない酔狂を実践しようとした瞬間――足から完全に力が抜け、僕はわかりやすいほどあっけなくその場に崩れ落ちたのだった。
やっぱりまったく作りものだなんて思えない質感の、地面、草、草、草。朝の露によってだろうか、つやつやと濡れている。ああ。近い。距離が、近いのだ。こんな距離感で地面を見ることなど、ふだんは、ないから。むかしとは違って、いまは、こんなふうに地面と近いことなんて、ないから。あれ、それなのに、どうして、いま。どうして、僕はいま、地面とこんなに近いんだろうか――。
「……あ」
意味のなさない、短い声。自分の声だと気づいたのは、自分の喉が震えたからだ。
地面に両手をついたまま。
僕は、なにかのやわらかくあたたかい身体を求めて、右手と左手交互に空気をまさぐった。
……手応えがあったのは、そのひとがそっちから寄ってきてくれたからだ。
僕は南美川さんをかき抱いた。あまりにも勢いがありすぎたかもしれないと自分でもすぐにわかった。そしてたぶん力が強すぎるのだということも。でも、やめられなかった。やめたらなにかが壊れる気がした。いま、このひとの身体をまるで救急バッグでもあるみたいに、そんなひどい扱いみたいに、わかっている、わかっていて、僕はこのひとを強く抱いて地面を見続けることを、やめられなかった。やめられないのだ。わかっている。ほんとうはいま僕が、このひとを励まさなければ。かろうじてそこまで判断できた僕の理性は僕の右手をある種適切に動かして、このひとのふわふわした髪と、三角の耳をゆっくりと撫でさせた。髪。髪。耳。三角の、耳。ひとにだれかなされた加工によるこの犬の耳と髪の毛の境界線――なんてこともないそんなことを思っただけなのになぜか、僕はさっきの中年女性と思わしきさらにその尻と衣服だと思わしきあの、不自然な、状態を、思い出してしまった。いったん戻ってきたそのイメージはもはや振りはらえなくて、――変な嗚咽が、喉の奥、いや胃の奥、いやそのさらに奥の得体の知れない身体の真ん中から、突き抜けるように、生じた。
身体の芯のほうから、なにかが逆流してきた。汚い音とともに、考える間もなく、僕は口から、自分自身の内側の液体と取り込みきれなかった食物の混ざったとことん汚いなにかを、吐き出した。情けない。ほんとうに情けない。嗚咽は繰り返され、勢いで目からは涙が溢れそうだった。パニックのために泣いているのではない、けっして。僕は、あくまで、身体的な理由で目から液体を溢れ出させているだけで――そう思った瞬間熱い涙がひとつ自分の右目から流れ出て、……これは、ぜったいに、生理的なものだと自分自身にふたたび、言い聞かす。
地面とばかり睨みあって。……せめて僕の汚いものが、このひとにはかからないように。そうは、思っているのに、右手は、右手ばかりは、――このひとにふれ続けることを、やめられない。
「南美川さん、ごめん」
南美川さんの首輪の鈴が、尋ねるようにリリンと鳴った。
「ほんとは、あなたを、あなたに、なにか、なにかをしてあげなくちゃ、いけない、のに。僕は、僕というやつは、こんな、とき、こんなときにも、自分のこと、ばっかりで」
「……犬のことも心配ですけど私は社会人のかたのことも異常な状態と感じます。犬にそんなに話しかけるなんて。だいじょうぶですかNecoプログラマーの社会人のかたは?」
割り込んできたかのような、しかしいまここにあって当然の人物の声が、頭上から降ってきて――僕は、見上げた。その顔は、……奇妙に落ち着いているように見えた。たぶん、強がりではなく。このことももしかしたらこのひとの仕事なんだと言わんばかりに、まったき冷静さを感じさせる、そんなようすで――。
「……でも、そうか。慣れてないかたが見たら、これは、衝撃です。衝撃なのかも、しれないです」
「……あなたは、こんなことに、慣れているというのですか」
「いいえ。植物人間に喰らわれるのは、はじめて見ました。でも……私たちは、私たちの仲間が肉塊として壊れていくことを、たくさん、見ていますから。だから、そのくらいの肉塊の損傷では、正直、そこまでは……なにも感じないのですが」
「……あなたの、上司だったんじゃないですか、いまの、……ひとは」
「でも上司さまは上司だっただけですよ」
「あなたと、いっしょに、働いてたんじゃないですか。かかわりがあって」
「……はて?」
僕をはるか高みから見下ろすかのようなこのひとは、心底わからないとでも言うかのように、首をかしげた。……逆光でその表情は明確には見えないけれど、もしかしたらちょっと困惑するみたいに眉をしかめてでもいるのかもしれない。
「かかわりは、ありました。でも、私たちは、私たちが壊れていくのを見ているのです。もっともかかわりのある、私たちです。……だから私たちクローン以外の人間が壊れることは、私たち、私にとっては、すくなくとも遠いことですが」
「……そういう、ものなんですね」
僕はちょっと笑おうとして、でも失敗してそのままやっぱり吐いてしまった。僕と、あのひとは、たいしたかかわりもなかった。ただちょっとうるさいなあ声が大きいなあそれに逃げたりするのだなあと、漠然と思っていただけだ。でも。それでも。その横顔や雰囲気やたたずまいを記憶するほどのかかわりともいえないかかわりだけでも、……それらのかすかな記憶ともいえないなにか残滓をたぐりよせて、いま、僕は、こんなにも、――気持ち悪くて、ぐちゃぐちゃで、ごちゃごちゃで、どうしようもなくてただ地面に這いつくばって単なる生体反応みたいに浅ましく醜く、吐いている。
……頭に、そっとした感覚がある。
たぶん、南美川さんが、僕の頭にその肉球を当ててくれている。南美川さん、ごめん――そう言おうとした前にまたしても吐き気の塊が襲いかかってきて、……僕は、やっぱり、吐き続けた。人権制限者たちの呻きのなかで、よくわからなくなってきた影さんに見下ろされて、南美川さんに情けなくもこんなかたちで思いやられながら、僕は、しばらく、わかっていたってどうしようもなくて、だから、……だから、吐き続けたのだ。しばしのあいだ、ずっと永遠とも思えるとも感じながら――。
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