光景

 僕はそうして、南美川さんに促されて。南美川さんに歩行計を装着して、まだこんな早い時間ではあるけれど今日の計測も同時に開始した、ということにして。


 影さんに導かれるがままに、広場の隅に向かった。ナンバーツー池の方角、ちょうど雑木林との接線となっているところに、人権制限者の一団は陣取っているのだった――彼らと出会ったとき体操をしていた場所だ。雑木林と広場との接線を円の直径として見たときに、ちょうど円を描くようにほとんど半々ずつ陣取っていたようだ。


「こうなってしまっていて」


 影さんは、困惑したように片手で示した――その困惑のわけなど、言葉で聞かずとも目の前にすればはっきりとわかった。

 南美川さんの首輪の鈴が、リン……と、最初ははっきり、最後は細く空気に溶けていくかのように、鳴った。それだけで僕には南美川さんが驚き、絶句していることが伝わってきた。南美川さん自身も、こう言ってはなんだが、犬という動物のその性質と、悪意ある歪んだかたちで融合させられた、ヒューマン・アニマルであるはずだ。しかし、それはそれとして、このひともそのことに対して驚くのだと――そのことに僕はわずかばかりの安心を感じた。いやそれはたぶんごく単純に、……この光景にこんな衝撃を受けているのが自分だけではない、そのことに安心を得たかっただけなのかも、しれないけれど。




 つまりは、そういう、光景だった。

 こういうときには、自然と悲鳴でもなんでも上がるものかと思っていた。そうでなければ、すぐに足が逃げるために動き出すものだと。でも、そうではない。そうじゃない。異様だ、異常だ、そんなのわかってる、もちろん。でもそれでいて、それとまったく同時に僕にはこんな、……こんな、奇妙な現実感が――両立しているのだ、……どうしてかなんて、そんなの知らない。わからない。この、この、光景を前にして、――僕はどうしてこのような反応をとっている?




 木々が生えている。その幹に、人権制限者たちは枷でつながれていた。まったき人権をもたない存在の者は往々にして身体の自由の権利を奪われる。管理、という理由のもとで、手枷や足枷で行動を制限されるのだ。

 服装は、いつも見るままの鼠みたいな制服。

 数人のひとたちはぐったりとして目を閉じていた。が、ほとんどのひとたちは呻き声を上げていた――口枷を嵌められているから意味ある言語を発することはできないのだ。



 なにも枷が問題なわけではない。頭ではクリアにそうわかっているのに、なぜだろうか、僕はほとんど反射的に枷について尋ねていたのだ――目の前の状況に言及することを一刻でも遅らせようとしているかのように、僕は、……僕は。


「……あの、枷は」

「はい。私が、私の判断で、やりました。私の、私だけの、独断ではあったのですが。でも、権利を使って、そうしたのです。叫ぶ、喚く、根拠のないことを言う、などして、収拾がつきませんでしたので……」


 影さんはちょっと当惑して言い訳でもするかのようなようすで、しかしそれでいてどこか奇妙に当然のことのようにそう言っていた。おそらくだが、このひとが当惑しているのは自己判断で権利を行使したことに対してであって、このひとたちの口に枷を突っ込んだことそのものではない。

 そういう仕事なのだ。このひとたちは。そういう社会的役目で、だから、必要があれば必要なこととして、そうする――わかっていたつもりだったが僕は、……ちょっと眩むみたいな思いがして、やっぱり、割り切れてはいないのだとまたひとつ、自分自身の心のほんとうのところを知った。



 でも、そんなことは、いまはほんとうはいいはずなのだ。

 いいはずなのに。……どうして、そんなことにばかり気持ちがいくのだろう。

 南美川さんが驚いているという事実とか、枷のことについてとか。

 そりゃ、あるときにはそういうのは問題かもしれないけれどいまはさほどでもないはずなのに、それなのに、……僕はどうしていまこの瞬間にはそんな些末なことばかりに、気持ちが、いってしまうのだろうか。





 僕はせめて一気にこの状況を把握してしまおうとする。たとえばプールで沈み混む前ひと息で一気に呼吸を済まそうとしてしまうみたいに、





 ……目の前を、見ている。目の前に広がる光景を。

 口枷を嵌められ言語が発せない彼ら。でもそれはある意味では当然のことなのだ。口枷を嵌められてもなお漏れ出る呻き声はつまり、それがいまこの瞬間言語になってしまったとしたら、バケモノとか、来るなとか、もう殺してくれとか、そういうことばっかり言うことになるのだろうから。パニックも起こすだろうし、……場合によっては、舌を噛み切ってしまうのかもしれないのだし。

 もっとも雑木林に近かったがわの彼らが犠牲になったということだろうか。影さんは彼らのことを優良と評したけれど、それは彼らがもっとも雑木林がわにつながれているからということになにかしら関連があったのだろうか。

 彼らは、

 そのふたりは、

 たしかに、あきらかに、あからさまに、

 幹の太い木と、一体化して、肌をほとんど木々の茶色にして、

 でも、昨日植物化された彼のように、……妙に局部を露出されているわけでもなく身体的にも痛みがある状態でもなく、かといって、背中に草の根の生えている子どものごとしでもなく、

 彼らだって充分悲惨だ悲惨すぎると思ったけれどもそれで言うならいま目の前のこのふたりは、凄惨に、



 ……樹木と一体化してかつ、人間のときのままであろうその顔は、巨大化いや、肥大化して、

 枝を両手のようにして、その枝は不自然なほどぶにぶにとして得体の知れない粘液を垂らし続け、ときにはそのぶにぶにの粘液が、ひとつのボールみたいな大きめの球となってどろどろどろどろと茶色と紫色の混ざった物体みたいに、ぼとん、ぼとん、ぼとんぼとんぼとんと落ち続け、

 ……つまりは、一体化した、その、存在、……なんなんだと形容することさえ難しいその、存在、は、にやにやしながら、なにかのかたまりを喰っていたのだ――見たくないけどよくよく見るならそれは中年の女性の尻だと思われた、




 がしゅ、がしゅ、ざしゅ、とどこか変に滑稽な音を立てながら、ふたつの肥大化した顔面は粘液の枝で抱き寄せるようにそのかたまりを抱き、おいしそうに、その口に運び、口の鋭い枝のかたちの牙で、噛み、噛み、噛んで噛んで噛んで、おいしそうに、噛んで、噛んで、ぶにぶにのボールみたいなかたまりをときどきぼとりと落としては、そのかたまりに、落とし続け、寄生でもさせるかのように、落とし続け、おいしそうに、ほんとうにほんとうにほんとうにおいしそうに――喰らっていたのだ、




 人権制限者の管理者のあかしであるベージュの制服の無惨にちぎれたそのカスみたいな赤やら紫やら茶色やらでもうでろでろの布が、ついには元のかたちも機能も失いはらりと落ちた。……つるんと出てきた裸の部分に思わず目を逸らしたくなったが、そんな隙も与えずその部分は、ぱくんと、おいしそうに彼らのいや、それらの口のなかに消えていったのだ――噛みきったのかぷちんとまたしてもどこか奇妙に滑稽な音が響いて、ふたつの顔は、じゅるりと線対称に真っ赤で大きすぎる舌で、舌なめずりをして、それで、……それで、終わりだったのだ。




 おしまい、だったのだ。こんなにも。あっけなく。信じられないほど――声のひとつも、あげられない、……あげられなかった、ほどに。

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