夜は長い

 ……南美川さんには申しわけないけど、その三角の耳の先端を、ひとつまみ、ふたつまみ、三回目にはほんのわずかだけれど意図的に力を込め、強めに引っ張った。

 南美川さんが言うには、耳のつけねは撫でられると気持ちいいけれど先端を引っ張られるのは嫌だ、とのことで。だからほんのわずかの力であっても南美川さんが不快に感じる可能性はふつうにあるわけで、それは、申しわけない――けれどもその耳は手を離せばすぐにまた元通りにしぼむ。

 まるで花が夜はその花びらを閉じるみたいに。人犬がよく寝入っているときには、その三角の耳がすこしだけうつむくように萎むという――正直なところそこにかわいさのようなものを感じなくもないけれど、……それもたぶん人犬の身体構造を設計したどこかだれかの学者の成果なのだと思うと、どうしようもない気持ちを吐き出すためにだけ、ため息をつきたくなる。


 ……眠っている、ということだ。

 その背中を撫でても、肉球をすこし押しても、反応しない。

 すうすうと、深く寝入っていることが伝わってくる――人犬の身体でいちにち過ごすのはさぞかし疲れることなのだろう、ましてや今日は四日目、なんだかんだで今日もたくさん歩いてノルマを達成していろんなことがあってくたびれたはずだ。……こんな寒いなかでも、こんな状況でも、眠る、南美川さんが、眠っている。



 自分のなかでもうまく言えないけれどそれは、とても、なんというか、……よいこと、という気がしたし。かくあるべし、とも思ったのだ――。




 バッテリーセーバーをかけていたスマホデバイスを、南美川さんが眩しくて起きてしまわないように手のひらのなかで包み込むような状態で確認すると、時刻はたしかに夜更けといっていい時間帯だった。ゼロ時に到達する、すこし前――もっともこの時計の時刻がこの世界において正しいだなんて確証はないが、……まあいまはそこを考え過ぎても仕方がない。さし示す時刻をとりあえずはそういうものとして、いまを過ごすしかない。

 もっとも、体感的にもその時間帯というのはあながち間違ってはいない気がした。日付が変わってないか変わっているかどっちだろうか、と予想していたくらいだったのだ。むしろまだ意外と時間は経っていないんだななんて思ったくらいで――まあ、だから、どちらにしろはじめることに不具合はないだろう。


 最終確認として。

 目をこらして、耳をすませて。

 ここが静かであることを確認する。


 南美川さんだけでなく、この広場ぜんたいが疲労と疲弊と眠りの暗さに沈み込んでいることを、理屈だけではない、視覚や聴覚はじめ感覚全体で、確認しておく。

 ……僕の感覚なんてそんな優れているものでもないのだし、普段はそこまで役には立たない。ただ、この静寂とこの暗闇だ。Necoインフラさえない異世界のような状況だ。やたらと、五感が研ぎ澄まされている気がした。そしてそれはあながち間違いではないのだろう。暗闇は濃く、静寂は強い。それこそが、いま、この世界といった印象で――。



 風は吹く。冷気を帯びた風はそれでも春風のようにときおり思い出したかのようにそよそよ吹くけど、ひとのしゃべり声や、歩く音や、そこに存在しているということさえ……遮られてしまったかのような、暗闇、静寂、……ただ僕の腕のなかにあるのは、南美川さんという、――南美川幸奈というリアル。



 ……だったら、と。

 いよいよ――はじめられそうだ。





 だれにも聞かれないほうがいい。いまはまだ。だれにも、知られないほうがいいのだ。もしかしたらそれだけですべてが崩壊してしまうかもしれないから。ほんとうに慎重な作業になる。睡眠時間が短くなるだろう。たぶん、明日もやることは膨大にあるはずなのに。でもそれでもやらねばいけない。当然のこと。知られては、ならない。地道な作業になるだろう。そして隠れた作業になる。すこし、いいやだいぶ、細心の注意を払うことになるだろう。なにせこのひとに――僕の腕のなかにいることになんら疑問を抱いていなさそうなこのひとにさえ、知られてはならないのだ。……かつ、このひとと約束した通り、けっしてこのひとのそばを離れずに。



 必然、作業時間は深夜となる――。



 深呼吸とまで、深くない。ただ単に、僕はその言葉を言うためにだけ――発声に必要なぶんの息を用意するためだけに、短く、息を、吸って、……吐く勢いで、声にした。




「……Cordコード




 さあ。あとは。ほとんど、賭けのようなものだ。そうでなければ頂上の見えない山登り。彼と、僕と、そしてもうひとりの彼と。いったいだれがいちばん速いか。いったいだれがいちばん最終的な局面までを見据えているのか。見切って、予想しつくして、最終的にこの状況を自分の意思の通りにできるのは、だれだ。



 勝てるかどうかなんて、わからない。そもそも僕は勝負というのは好まない。自分が劣等であることを知っているから。自分が負け続けているから。だから勝ちたいという気持ちもない。勝ちたいなんて、そんな優秀者がいだくみたいな気持ちは僕にはないのだ。だってそんなものをいだいてはいけない。僕がそんな気持ちをいだいてはいけない。わかってる。わかってるんだ。わかっているのに――いまは勝たねばいけないだなんて、どうしてそんなことになるのだろうか。



 でも勝たなきゃいけない。……勝たなきゃいけないんだ。

 勝たなければ、……たぶんこの世界から、僕は人間のまま戻れなくなる。

 そうでなければ決定的になにかを奪われる。

 それは、どちらにしろ、……南美川さんを人間の身体に戻すことのできるいま唯一の希望の光を失うという意味においては、同義だ。



 なにが、どこまで通用するか。

 彼と、もうひとりの彼が考えそうなことはある程度は予想がつく。

 ……でも、ある程度までだ。ほんとうに。彼ともうひとりの彼はたぶん掛け値も文句もなしもまごうことなき天才で、……僕は凡人、いや、……ほんらいならば人間基準にさえ達しない、劣等者。



 だから僕がいちばん不利なのはわかっている。

 そんなことははじめからわかっている。

 彼はたぶん彼とだけ戦っているつもりでいるだろう。

 もうひとりの彼だって、……これはほかの問題であると解釈しているはずだろう。



 けれども僕はやらなきゃいけない。

 そんなバケモノじみた彼らの意思より、自分の意思を通すために。




 僕は、ここに、散歩をしにきた。それは、南美川さんの、……南美川幸奈の身体をもとどおり、人間の身体に戻すため。その目的が、なによりいちばん。その目的のために、僕はここにいる。その目的のために、僕はたぶん、これから起こりうるすべてをやる――。





「言うほど、生易しくないのは、わかってるけどさ」




 ……ひとりごちて、自分に呆れた。

 ああ。僕は。……どこまで、孤独なのだろう。

 たぶん、ひとから見た僕は。とても憐れで矮小な存在で――。




 それでも。




「……Discovaディスカバ




 それでも、こんなコードを使ってまで、……そしてこれから夜通しぶつぶつとひとりごとを異居続ける不審人物みたいにある種のプログラミングを試すことをして、そうやって、そうやって僕は、……どうにか、この状況を、打開するしかないって僕自身はだれよりいちばんわかっている。そう。たぶん、だれよりいちばん。僕は僕の情けなさを噛み締めながら、……それでもそのようにするのだ。しなくてはならないのだ。僕の、目的のために。南美川さんを――晴れて、人間の身に戻すために。




 こんなコード。

 一生、使わないと思っていた。

 人生、なにがあるかなんてわからない。しかも、それを、……現実次元から切り離された空間で、またしてもマシンを媒介せずに口頭だけでプログラム反応を試していくなんて――。




 さあ。

 夜は、長い。……僕の夜は、すくなくとも。

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