夜は無駄に更けていき

 夜は、無駄に、更けていった。

 いまこの瞬間のこの広場には、おやすみの挨拶も、消灯も、なにもなかった。

 ただたくさんの小島のような小集団か、あるいはたったひとりの島が、そこかしこに点在しているだけだ。


 交わることはない。

 小さな、ほんとうに小さな数人単位での集団。そのなかで小さな挨拶や、ちょっとした就寝前の決まりごとは、なされているかもしれない。

 でもここには家もあたたかい食事もないのだ。使えるツールだって制限されている。そもそも、Necoインフラだって使えないのだ。どうしようもない。なんにも、やりようがない。

 こんなに凍えるなかで、外にいるままで、――いや、それは正確に言えば南美川化に創られた感覚なのかもしれないけれど、すくなくとも僕たちの実感としては外にいるまま――気軽に家を出てきたときの格好で、こんなところに取り残されてしまっているのだから。


 だから、この夜は無駄に更けていってるのだと。

 僕はそう――感じたのだ。



 南美川さんは、すっかり泣き疲れてしまったようだった。鼻をすんすんすするので、その鼻水を指で拭ってあげることにする。ポケットティッシュなら持ち歩いてはいるけれど、……どうしてだろう、それを出して使うまでもないと思ったのだ。

 きっと、南美川さんの鼻はいま真っ赤だ。それに、全身も。証拠に南美川さんは泣きながらときおりひどく震えた。恐怖もあるのだろうけど、寒さが関係ないわけもない。僕がつねにくるむように抱いているからといって、この寒さがほとんど全裸のままでこたえないわけも、ないのだ。



「……シュン、わたし、ちょっと眠くなってきた……」

「そうか」


 僕は、南美川さんの背中をゆっくりしたテンポで叩きはじめた。

 とろん、としたのかもしれない。南美川さんの尻尾が、一気に硬さを失う。人犬の身体は、わかりやすい。感情も、感覚も、本能も――現在の科学技術の可能なかぎりすべてのそれらをさらけ出すようにつくられていて、だからほんとうにやっぱり、隠すことなどできないのだ。

 眠いときには――尻尾や、耳が、力をうしなう。……うとうとしてくると、尻尾が小さくゆっくりと揺れはじめる。自分で揺らすこともできるみたいだけど、こういうときには自分で揺らしているわけではないのだろう。ただ、このひとの本能の証拠として、尻尾は――ゆらゆらと揺れるのだ。


「……眠たくなってきたんだね」

「うん。わかるの……」

「尻尾が、揺れてるから」

「やだ、……恥ずかしい」

「でも、揺れちゃうんだろう。眠たいときには……」

「うん……」


 なにか照れ隠しでもするかのように、尻尾がいちど大きく円を描くようにぐるんと強く回った。南美川さんはなにかをごまかそうとして、いま自分の意思で尻尾が動かせることを示したかったのかもしれない。でもその動きは一瞬のことだった。すこし間があって、……またすぐに、ゆらゆら、ゆらゆらと、柴犬モデルのその尻尾は動きはじめるのだ。まるで自動の、振り子のように。


「休んで、いいよ。僕が、いるから。南美川さんが眠っているあいだずっとそばを離れないから」

「……ほんと?」

「もちろん。そもそもほかにやることだってないだろう」


 僕は、ごく当たり前のことのようにそう言った。

 南美川さんがすこし嬉しそうに笑った気配がして、……尻尾の先のまるまったところがいちどだけ、僕の手のひらを、撫でてくれた。……なかなかに、気持ちのいい感触。


「……やることがないから、いっしょにいてくれるの」

「そうじゃないよ。あなたのそばを離れないから、ここにいる」

「でも、やることがないって……ゆった……」


 尻尾の動きは、さらにゆっくりになっていく。

 僕は、こんどは背中ではなくてその頭を、撫でる。

 そして、語りかけるのだ。言葉も、ゆっくりと。僕の話を、――ほんのすこしでいいからこのひとに聴いてほしいななんて、思ってしまって。


「ねえ南美川さん。僕はね、いまふしぎなんだ。自分のベッドではない場所で夜を過ごすなんて、高校の修学旅行以外だ」

「……修学旅行……わたし、あのときには、あなたにひどいことを……」

「ああ、それは、……いいんだ。ただ僕は、事実を言おうとしただけで。僕は修学旅行でもなければ泊まったりとか、旅行をしたりとか、そういうのはなかったんだ。南美川さんたちは、……違ったのかもしれないけど」

「そうね、わたし、……たくさんのところに遊びに行った、人間のころは、自由に……」

「でもね、僕はそうではなかったから」



 僕は、空を見上げた。

 真っ黒く、べったりで。いまは、月も、星ももちろん、虹さえ、見えない。

 ただブラックカラーに一面ペイントされてしまったかのような不自然な夜空が頭上に広がる――。



「……変な話なんだけど、ちょっとわくわくしてるというか、僕の人生にもこんなことが起こるんだ、と思っている。馬鹿げているよね。そんな場合じゃないのに。でも僕は、もうずっと長いこと、自分ひとりの夜しか知らなかったから」



 だから――と、つぶやいた。

 南美川さんの、返事はない。眠りはじめてしまったのかもしれない。だったらなおさら、……好都合だ。吐露するのに、好都合。



「あなたとふたりだけでこんなにゆっくり夜空のもとで過ごせるときがくるなんて思わなかった。修学旅行のときにはそんなこと夢見ただけできっと殺されていた。……ただこの夜空に当たり前のように星がちりばめられていたらよかったなあ、とは思ったけれど」



 返事は、ない。

 代わりに、穏やかな寝息が聞こえはじめる――安心して、僕はやっとすこしだけ全身から力を抜いた。……このまま背中からもたれるように倒れ込んでしまいたい。でも、そうはできない。なぜなら。





 ……これから、まだ、僕はやらなければいけないことがある。南美川さんも眠り、広場のひとたちも眠りはじめ、広場ぜんたいが眠りに就いたら――僕は、はじめようと思う。それまでしばしようすうかがい、休憩だと思って、……僕は両手を地面につけてすこしだけ胸を反らして、はあ、と深呼吸した、……油断は、ならない。

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