変化
そして、数日後。
わたしは無限回廊のように不安な夜を越えてきただなんてたぶん微塵も感じさせない雰囲気で、日常感で、その日の仕事をはじめた。
そうよ、たぶん。わたしは、いつも通りにできているのだから――。
いつもの時間に登校して、研究室に来た。
出入り口にかけてある白衣をふわっと手に取って、そのままふんわりと羽織った。ボタンをしっかりと留める。シワが寄ってないことを確認する。
同期三人――ううん三匹も、いつも通りに滞りなくすっかり仕事を開始しているみたい。
当然よね。毎朝わたしより一時間は早く来るように指示してあるのだし。じっさいにはたぶんだけれど、一時間半、ううん二時間は早く来ているはず。
劣等者がどれだけあがいたところで、優秀にはなれないけれど、でもそれを時間で補うことはできるわ。ううん、せいぜいが時間でしか補うことができないといったほうがより正確なのかしらね――かわいそう、かわいそうよ、……劣等者は、かわいそう。
劣等者と優秀者はまったく違う存在だというのに、どうして狩理くんは、あんなことを……言うんだろう。
朝になっても疑問はあぶくのように浮かび、……でも、夜のようにわたしを捉えて離さないということは、なかった。
そんな疑問はすぐに弾けてしまうの。いますぐやるべきことをこなさねばいけない、あのすごいすっごい先生の直属のこの研究室の仕事中においては。
そんなことは、むかし話の小さな子どものしゃぼん玉みたいに、弾けてしまうの。
バン、とドアが
ノックもなしに、唐突に開いた。
もちろんわたしは予想している。
もちろんわたしは覚悟ができてる。
だから――極上の愛想で、笑ってみせるの。優秀者らしく。そしてゆくゆくはもしかしたら、――超優秀者にだってなれるかもしれない者として――。
「おはようございます、先生」
「おはよう、南美川さん。どうかしら? 調子は?」
わたしは、そこにわずかな気配を感じ取った。
もしかしたらわたしでなかったら簡単に見逃してしまうかもしれない。
でも、わたしは感じ取った。
そのことが、とても嬉しかった。
そしてそのことがほんとうならば、ほんとうに、ほんとうに喜べると思った。でも。だからだ。慌てるなって、自分に言い聞かせた。ひと呼吸置くの。優秀者はね、……それも超優秀を目指すのであれば、そんなふうにいっときのエモーショナリィにつき動かされてしまっては、ならない。
「はい。問題なく」
わたしは一歩間違えればふてぶてしいかもしれない、でも一歩間違えなければただ底抜けにぴっかりと明るく自信家の笑顔をつくり。
そしてこれも一歩間違えれば慇懃無礼で、でも一歩間違えなければとっても恭しく見えるはずのお辞儀で、角度で、静けさで、先生に昨日ぶんから本日今朝ぶんまでのデータの記されたアナログペーパーを、渡した。そう、それこそまさしくむかし話のお城の王さまに恭しく戦利品を差し出す賢い賢い戦士みたいな感じでね――。
先生はわたしを一瞥した。
その目に笑みは湛えられていなかった。
でもだからといって茶色の猫の目でもなかった。先生の目は、わたしをまだ審判してはいなかった。
先生の目は人間の日常として当たり前の平坦さとでもいえばいいのか、興奮しているわけでも判断するわけでも作るわけでもなく、ただ、日常の当たり前さを濃厚に感じさせる胡乱さをもってして、わたしを――短く、見たのだ。
わたしはなんとなく嬉しかった、……それは先生の素である気がしたから。
先生はそのままの胡乱さをもってして、わたしが丹念に準備して用意したペーパーを、めくった。
……その顔が、だんだんほころんでくる。そう。そうよ。それこそ、自然に――。
しばらくペーパーをめくる音だけが、研究室に響いて。
先生はわたしの採ったデータに、……見入っているようだった。
「……あら。南美川さん。やるじゃない」
先生が、驚いてくれた。すこしでも。わずかでも。……超優秀のこの先生が、わたしのやった仕事に対して――驚いてくれた!
わたしはほんとうは泣きたいほど感動したのだ。
だって、期待通りではない。期待はもちろん満たした。そのうえで。その先に。
「前回までのあなたのデータはただわたくしのほしいものを採っているだけだったけれど、今回のは思わぬ付随価値もあって楽しいわねえ。うん……これなら学会でいくつかの仮説を補強するのにも使えるかもしれないわねえ」
先生は、気がつけばにこにこしていた。
わたしも、やっぱりにこにこしていた。
「……なにか工夫をしたのかしら?」
「はい、先生。見てください――」
わたしは白衣の裾をひらりと広げて。
わたしのつくりあげた研究室の全貌を、ねえどうぞ御覧くださいねと言わんばかりに、先生に示した――。
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