前の幸奈のほうが
……だからな、ありえなくは、ないんだって言ってんだよなあ。
狩理くんがそうつぶやいた気がしたけれど、わたしは――無視をした。
だって、そんな、……意味のないこと。
狩理くんは大きく伸びをすると、あくびをして片手で口を隠した。それはあんまりにもわかりすぎる、おおげさなポーズの気がした。
そしてそのまま、前ぶれもなく声かけもなく、……歩き出したの。出口に向かって。
わたしも慌てて追った。
狩理くんの素早い足音と、必死でついていくわたしのハイヒールのカツンカツンという鋭い音が、エントランスに同時に響く。
「ねえ、狩理くん、狩理くんってば……」
「御宅さ、なかなか有名だぜ。バケガクの俺のとこにも噂が届くくらいだ」
「えっ、なに、わたしのなんの噂……」
なんだろう。悪い噂ではないといいけれど。でもわたし、いまかなり優秀な先生の研究室でひとりで仕事をし続けているのだし、自分で言うのもなんだけど、あんまり悪く言われるようなことは思い当たらないけれど――。
「気になるか?」
「うん」
「じゃあ、教えてやろうか。南美川幸奈っていうのが超優秀な再生生物学の先生のもとでバリバリ研究やっててな――」
あら、……いい噂かしら。
「人間を道具扱いしてでも、その先生に認められるために毎日毎日がつがつがつがつしてるんだってよ、って。その道具扱いのやりかたも、えげつない。まるでそこの先生とそっくりだな、って」
「えっ、やっぱり先生もおんなじようなところがあるわけ――」
知らないのか、とでも言いたげに狩理くんは鋭い横目でわたしを見た。もうすぐ、エントランスから出る。……夕方の国立学府のキャンパスの賑わいは、もう、すぐそばだ。
「あの先生もめちゃくちゃエグいって有名だぜ。人間を奴隷にするのがうまいって聞いてますけど」
「そういえば、先生、言ってた、人間を奴隷にすることもできるしそれでいいこともあるのよって――」
「どうして御宅は嬉しそうなんですかねえ」
「……だって、先生との共通項が見つかったから。わたしも目的のためならひとを奴隷にすることくらいなんて、厭わないつもりだし」
「まあ、な」
すたすたと歩く速度を、緩めないまま。狩理くんは、……ふたたび小さくため息をついた。
「優秀者っていうのは、そういうもんなのかもしれないなあ。いいや、超優秀者ほどそうなのかもしれない。ひとの気持ちを、気にしない。ひとをどう扱おうが自分の勝手だって澄ましている。……たしかにな。それが上位小数点何パーレベルにいくときの、条件なのかもしれねえよ――」
「えっ、そ、……そうなの、そうなのかな、だったらやっぱりわたしもあの先生みたくなれるのかな――」
「知らねえよ。あと。……俺は、そうまでして優秀を目指す気はないから」
エントランスの、出口。
巨大な壁として立ちはだかるかのような、一面の曇りガラス。
それを透かせば国立学府の喧騒がある。
それを越えれば帰り道がある。
いつもの通り。生活感のある空間に、戻る――。
狩理くんはそんなエントランスのふもとの自動ドアの前で、ポケットに両手をいれてわたしをじっとりと下から睨みつけるように、見ている。
「だったら俺は普通でいい。凡人でいい。……人間でいられる程度のなかで」
狩理くんとわたしのあいだには、気がつけば、歩みによってできあがってしまったそれなりの距離があって。
「御宅は、がんばれよ。人間を人間として見れなくなったって、そっちの道を突き進みたいんだろ。……今日の御宅の同期への反応見ててそれがはっきりわかったわ、俺は」
「……ねえ、狩理くん、なに、なんなの」
「でも俺は!」
キィン、と一瞬だけ狩理くんの声が反響して……耳に鋭く響いて。
「前の幸奈のほうが好きだったよ。……前の幸奈のほうが、まだゆるせた。じゃあな、……お疲れ、また会おう、お姫さま」
「待って。狩理くん。話し合おうよ――」
狩理くんは。
すぐに背中を向けて、すぐに出て行ってしまった。……夕方のなかへ。喧騒のなかへ。
わたしも慌てて外に出てあたりを見回したけれど、狩理くんはよっぽど速く移動してしまったのか――もう、どこにもいなかった。
そしてわたしはその直後どうでもいい知り合いに見つけられてしまって話しかけられて、……じつにどうでもいい会話を愛想笑いでごまかしながら、国立学府の出口までの家路をたどることになったのだ、……どうでもいい知り合いなんかより、ほんとうはわたしはわたしのほんとうにだいじなものにコストもリソースも注ぎたかった。注ぎたかった、のに。
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