くだらない時間
真夏のはじまりの季節のはずだけれど、なんだか涼しい夜だった。
もう明るいとはけっして言えないけれど、でも暗くなりきったわけでもない。夜が最後、青く溶ける、この時間にはわたしは毎日たいていこの小さな部屋にいた。
わたしの話を聴くと、婚約者は小さく笑った。それは馬鹿にしているふうにも取れるし、困惑しているふうにも取れる笑いだった。……わたしの婚約者、兼、幼馴染のこのひとは、いつからかこんな笑いかたを、覚えたのだ。
「それはさ、
「もー、なんでまた、わたしのことそう呼ぶの……」
「はいはい。幸奈さん」
狩理くんは、からかうように片眉を上げた。わたしはもういちど、ふざけるように、もうーっ、と言ったけど、わりと真剣にちょっと嫌な気持ちになっていた。
……狩理くんは、大学生になってから、冷笑的なところが増えた。
高校までは、わたしのこと、基本、名前で呼んでくれてたのにさ。たまには、御宅とか、そうやって呼ぶこともあったけど……なんかいまは、その基本っていうのが逆転してしまっていると感じて仕方ない。
わたしは、ちゃんと名前で呼んでほしいのに――狩理くん、そのところのわたしの心の機微とかって、気づいてくれているのかなあ。
今日は金曜日だったし、宵の口から、ふたりで缶のお酒を開けていた。狩理くんもわたしも、おなじ国立学府のおなじキャンパスの学生同士だけど、今日は帰りはバラバラだった。実験の関係上わたしのほうがすこし遅かったので、お詫びってことでちょっとお高いワインセットを買ってきてあげた、
……ちょっとお高いったって、もちろんわたしたちにとっては、たいしたことはないのだけど。もちろん、いいワインだ。けっこう、いやかなり、いいワインだってことくらい、ワインソムリエのプロフェッショナルに言われるまでもなく、わかっているわ。そういうことだって、優秀者のたしなみだから。
でも、たいしたことはない。
だって、国立学府の学生には、潤沢な資金が与えられるから――そのなかに、もちろん、交際費や交遊費、実績に応じた贅沢金だって、公式に、社会から付与されるのだ。
……優秀者であるって、味わえば味わうほどに、すばらしいわよね。
わたしはこくりとフルーツワインを飲んだ。……うん、豊かな香りに、味、とってもおいしい。おつまみにと選んだ、フレーバーチーズも……間違いなかったみたいね。
「ねえ、狩理くん、これおいしいわね」
「まあな。いつもの贅沢ー、って感じ」
「なによー、それ……」
「そんで、なに。けっきょく今日は御宅は――」
「幸奈!」
「――幸奈は、研究室の同期に、奴隷労働させてきたから俺んとこ来るのが遅れたわけ」
「だってえ……」
わたしはやっぱりちょっと嫌な気持ちで、視線を落とした。
……骨董品かなってレベルの、丸くて小さい、ローテーブル。狩理くんは、これはローテーブルだなんて洒落たものではない、ちゃぶ台というんだ、といつも主張するけれど。
ほんらいはひとり用なんだそうだ。こうやってふたり、コンビニやらスーパーやら、あるいはオープンネットショッピングやらで買い込んできたごはんやらお菓子やらを乗っけると、それだけで、ぎゅうぎゅうになってしまう。
……わたしはそのちゃぶ台とやらの下に、脚を伸ばした。
よくひとからも褒められるし、自分自身武器になるとわかっていて、ひそかに自慢にも思っている、長くて細くてすらっとした脚。
わたしはだからよく脚を露出する。寒い時期でもおかまいなしだけど、夏なんかは、いちばんそれにいい時期だ。
今日も、オールドカジュアルなデニムのショートパンツを履いている。街を歩くだけで、羨望の眼差しが受け取れることをわたしはよく知っている。そして自慢の脚をてくてくさせながら向かう先は、国立学府の堂々たる紅き正門、
だからわたしは登校の時間っていうのもすごく好きだ、……ごめんね、ごめんなさいね、わたし、容姿も比較的に優れているのに、そのうえこんなに、優秀者で。しかも、道行くひとには知りようもないだろうけど――わたし、国立学府のなかでも、けっこう、かなりね、優秀なほうなの、……このままがんばっていければ、もしかしたら小数点以下組にだって手が届いちゃうかもしれない、
ねえ、わたし、わたしってね、とっても優秀で、劣等者のみなさん、ごめんね、かわいそうよね、ほんとうは、わたしのようになりたかったでしょうに――。
……わたしの脚は。でもなにもそういった相対的価値の確認のためだけに、あるのではない。
狩理くんにも、これが効くとわたしは知っている。
経験上、よく知っている。
……でも、狩理くんの反応は、鈍い。
最近、狩理くんってば、ほんとつまんなそうにして……なんでだろうな、気に入らない。……せっかく、わたしだって、時間をつくってこうやって来てあげてるのよ? 狩理くんの、ひとりだけの、このお世辞にもきれいとも大きいとも言えないアパートのお部屋に――。
「……だってえ、だってね、ほんとに劣等なのよ。なんで、国立学府に来れたのか……理解できないレベルなのよ」
ふうん、と狩理くんはつまらなそうにうなずいた。
「御宅、なんか高校のときにもよくおんなじようなことゆってたな」
――わたしは、ますます嫌な気持ちになる、なんだか、……かっと、してしまう。
お酒のせいも、あるからかしら。感情的になるだなんて、優秀者らしくないわ。でも。でも。だって。――わたし、なにも悪くないのに。
狩理くん、もっと聴いてよ。
もっと、もっと、もっと……真剣に、わたしの話を聴いてほしいのに。
わたしの話を聴けるだなんて、貴重なことの、はずなのに。
「それでもわたし、我慢したんだから。研究室に配属されて、三か月。かりにも、わたしの同期なんだから、あんな劣等、なにかのミスか、手違いかもしれないって。
……でもやっぱり、どう考えても、劣等だったの。
劣等だったのよ。
プロファイルを見て、びっくりしちゃったもの。
わたしが一日で出せるような成果をあのひとたち三か月しても出せなくて――」
「いいじゃないか。それで、御宅が」
「御宅って、呼ばないでよ。わたしは、幸奈!」
「……幸奈がさあ、研究室でトップワンになれるんだから。ありがたい話だと思うぜ、そもそも。なんのために劣等者がいると思ってんですかね、幸奈お嬢さんは」
わたしは、ガンと音を立てて空き缶を蹴った。
……自慢の脚はね、こういうことにも使えるの。
「そういうことを、言いたいわけじゃ、ないもん」
狩理くんはため息をついて、わたしの買ってきたワインを煽る。
「――わかるでしょう? 狩理くん。あなただって、優秀者なのだから……」
「あのなあ、幸奈」
狩理くんの、呆れた声。わたしはかたくなに、自分の膝だけを見つめている。どうして。どうしてよ。――わたし、ほんとうのところ、こんなにきれいでかわいくて、キャンパスでも人気者で、そのうえ、国立学府のなかでさえ、とってもお勉強、できちゃうのよ。……優秀、なのよ。
時間、わざわざいつもつくってきてるのに――ああ、やだ、やだなあ、……去年あたりから、なんか、狩理くんといつも、くだらない時間ばっかり。
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