第ゼロ章 わたしは、優秀者。

劣ったひとは、かわいそう

 国立学府、生物学科細胞学研究室。

 わたしにひれ伏す頭がみっつ。

 かわいそうなひとたちなんだわ、とわたしは純粋に思った。




 ミンミンゼミの合唱が研究室のなかにまで響きわたる。




 それにしたって、あんまりだ。

 こんなにわたしと能力差があって、……これから、どうしろっていうんだろう。



 ちょっと困ってしまったので、わたしはとりあえず彼女たちの頭を素足で踏んでいくことにした。

 左の茶色く染めたボブの頭、真ん中の黒く伸ばしたロングの頭、右がちょっと淡い茶色に近いベリーショートの頭。……それで、どれがだれだっけ?



「あなたたち、すこしは役に立ってくれるのかしら……」



 わたしはつぶやきながら、もういちど順番に彼女たちの頭を踏んでいく。

 なんかいか、往復した。

 ……ため息が、出てきた。



 上下関係も、教えてあげなきゃいけないし――ねえ優秀者って大変ね。ひとに、社会に対して、たくさんの責任があるんだから。

 そんなに踏みたくもない頭だって、踏んであげなきゃいけないし――。



 キャンパスに住み着くミンミンゼミの声が、やたらと耳に響く。

 ……気が散ってるなあ、わたし。

 それは、わたしが退屈している証拠だった。




 真夏。三年生になって、専攻が決まって、研究室に配属されて約四ヶ月。

 わたしは、研究室の同期たちがわたしよりはるかに能力が劣るとはっきり判明したことを――真夏のけだるさよりも、もっとずっと煩わしく、思っていた。





 高校のときにはうっとりと夢見ていた、国立学府での大学生活。

 大学生活は思っていたよりイージーだった。国立学府というのは同年代における相対的超優秀者たちの集まりなんだから、となんだか周囲に、とくに狩理くんとかにはさんざん脅されていたけれど。三年生に上がったいま、なあんだ、たいしたことないじゃんっていうのが、正直な感想。


 わたしは高校のときから生物がよくできたから、生物学科。大学に入ってからも、生物学への手ごたえはそう変わらなかった。つまり、それなりにできたってこと。

 生物という科目にかんしては、高校のときにはたいてい学年で一位、運が悪くてもせいぜいが狩理くんに次いで二位だった。大学に入ったらさすがに毎回主席というわけにはいかなかったけど、それでも百人ほどの国立学府生物学科のなかで、わたしは、成績も、総合的観点からいっても上位五パーセントに入る。


 生物学、向いてるんだわ。わたしは、そんな実感を得ていた。



 上位何パーセントか、というのはとてもだいじだ。ほんとうにだいじ。だって、ひとよりどれだけ優れているかで、その後の人生が決まる。逆に言うと、ひとより劣ってしまったら、その時点でそれはそれで人生が決まってしまうのだし。



 子どものころからずっとそう言い聞かされて育った。パパとママは、わたしに優秀であることを望んだし、それはいまでもそうだ。


 わたしは小さなころは、競争が苦手な子どもだった。

 他人を蹴落とすようで、気持ちのどこかが遠慮してしまったのだ。



 でもパパが教えてくれた。

 ひとより優れていることは、けっして悪いことではない。その優秀性が社会貢献になって、社会がよりよく回るようになって、結果的にいろんなひとが助かるんだからね。

 優秀者は、立派だよ。高貴な使命と、責任がある。

 劣等なひとたちを導いてやるんだから。



 家畜の群れを、先導していく人間とおなじ――そう聞かされたとき、小さなわたしは胸が熱くなった。

 ……大好きなおとぎ話の主人公みたいだったから。

 広大な草原、希望の夜明けに、たくさんの家畜を連れて。

 よくわからないけれどなんだか格好いいステッキを空高く突き上げて、黄金色の夜明けをだれよりも早くいちばんにつかまえる――。




 ……家畜のように劣等者をかわいがってあげなさい、とパパもそしてママも、いつも言った。




 そういう優秀者に憧れていたし、わたしはそうなりつつあるという実感は得ているのだけど、やっぱり、なんか……いまいち。劣等者というものを、わたしは理解できていなかった。




 どうして劣っているのに人間らしい振る舞いをするのだろう。

 どうして劣っているのにまるでわたしとおなじ人間みたいな振る舞いを、平気でできるのだろう。





 高校のころは、それでもまだ、よほどでなければ耐えられた。

 よほど、っていうのもいたけれど。

 でも、でも――でも。







 わたしよりはるかに劣るのに、わたしとおんなじ人間みたいに、まるで友達でもあるかのように振る舞う劣等者たちに、わたしはいよいよ困惑してしまって、夏季集中期間のはじまったこの日、こうして、……研究室で土下座をさせて、とりあえず、その頭をいっこいっこ踏みしめていっている。なにかを、ひとつひとつ確認していくかのように――。

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