優秀ならば、なんでもよい

「そういう話がしたくない、って言うけどさ。じゃあどんな話がしたいんだよ」

「なによ、そんな大げさな話じゃないもん……ただ、今日こんなことあってね、あんなことあってねって、言いたいだけじゃない」

「――だからつまり相対的劣等者に土下座をさせて奴隷労働をさせた、って話がしたいだけなんだろう?」



 かっと自分の頬と気持ちが酔いのせいだけではなく熱くなったのを感じて、



 わたしは思わず、ビーズクッションをわし掴んで狩理くんに向かって投げた、……狩理くんのほっぺたに当たって、すぐにしなだれるようにビーズクッションは床に落下して、ぽすん、とあっけないほどの音がしただけだった、でも、でも、嫌なの、――ますます嫌な気持ちになるの、だいたいこのラブリーピンキーピンクカラーのハートタイプのビーズクッション、高校のときにわたしが狩理くんにプレゼントしてあげたものなのに、どうして、こんなにしなしなしてぐんにゃりして、こうやって放置してあるのよ?



 狩理くんはゆっくりと、じっとりとした目でこっちを見た。

 その怖い顔を見て、

 一瞬、怒鳴られるかと思った――だからぎゅっと目をつむったのに、狩理くんは、次の瞬間、……へにゃら、と笑った。あっ、酔いがなんかいい方向に作用して、誤魔化してくれたかな、よかった――と、わたしは、ほっとした。



「……土下座させて、奴隷労働させてさ、楽しかったか? 幸奈」

「うん、ちょっとは気分がマシになったわ」



 わたしはこくりとうなずいて。

 どうやら、狩理くんが聴いてくれる気になってくれたみたいなので、仕切り直して、あらためて、今日のできごとを話しはじめた――。






 そもそもに、おいて。



 わたしの所属する研究室は、生物学科細胞学研究室で、生物学科のなかでも有名で、そしてなによりとっても優秀な、小数点以下何パーセントどころじゃないほどの、目玉の先生の研究室だ。



 国立学府への入学前は、もし国立学府のなかで自分がたいして優秀じゃなかったらどうしよう、と怖くなって深夜にひとりベッドのなかでぬいぐるみを手と足でぎゅっと抱きしめてこっそりすすり泣きする夜、とかもあったけど、じっさい入ってみればそれはまあ、だいたいにおいて、杞憂だったとわかったのだった。


 だいたいわたしは高校のころだって、生物だけでいえば、狩理くんよりも優秀だったのだ。あの、狩理くんよりも。バランスよくすべてに取り組むことが要求された高校時代と違って、すでに専門家として駆け出しと認められる国立学府大学生は、専門分野と、せいぜいが周辺領域においての能力しか求められない。



 国立学府という全国的な優秀者の群れのなかで、

 わたしは、たしかに頂点ではなかった。

 でも、けっして底辺でもなかったのだ。

 それどころか。

 国立学府のなかで、国立学府の人間なんだと、対等に笑いあえるくらいには、

 わたしは、優秀だったんだって――実感して。





 ……むかしの大学は一般教養とか総合科目とかいって、自分の専門となんら直結的に関係のない勉強もやらせてるんだって知ったとき、わたしはほんとうにびっくりした。


 どうして、そんな無駄なことをさせたのだろう。大学に進んでまで、そんな、非効率なことを? そんな時代のひとたちは、たしかに、高柱猫とかいったっけ、高校までの社会の授業で名前をよく聞いた、いまの時代の礎となったひとに――旧人類、とか呼ばれても、仕方ないなあってほんとに、思った。



 ……とはいえ、わたしも、専門分野ではないものごとを、好んでいたりもする。

 それはなんの役にも立たない、むかしばなしとか、ファッションの……とくに、ネイルについてとか。



 なんの役にも立たないってわかってるのに、むかしばかしのソースを集めていると、楽しくて楽しくて、時間があっというまで。

 ああ、ひとってなんかむかしからこういうところあるんだー、って、笑い転げたり、馬鹿だなーって思ったり、ちょっと、泣いてみたり。


 ネイルだって、ネイルの総合人工知能が選んだものを身に着けるのが最適だってわかっているのに、どうにも、独学でパターン研究をしてしまったり。




 ……当然、むかしばなしなんかで、ろくな専門性がもてるわけがない。旧時代ならともかく、現代で、そんな、……物語とか文章なんて、ろくに必要とされていない。そんなものを取り扱う立場になるなら……優秀、という当たり前の二文字からは、人生が遠ざかることになる。……そんなのは、ふつうに、ありえないし。


 ネイリストについては、こっそりと、クローズドネットで日々いろんな情報を収集していた――でもけっきょくわかったのは、ネイリストというのは、とてもとても国立学府の人間がなるような仕事じゃなかった、ってこと。

 ただ例外はあって、ネイルのパターン自体そのものを開発する仕事なら、それはそれなりの立場だったし、国立学府の立場と天秤にかけてよいほどの社会評価ポイントも、望めたけれど――センスなどというのは博打にしか思えなかった。……そんなことで、人生、棒に振るわけにいかないもんねと、こっそりとついたため息は、いったい――ぜんぶで、なんどになったか。



 わたしは、そのことが――自分自身が生物学一色でないことがあまりに不安で、面接のとき、……研究室の先生に、こぼしてしまった。

 噂より、ずっと柔らかくて。知的で、すてきな雰囲気の、おとなの女性に――だってその爪の真っ赤なネイルが、とても、とても、……おしゃれだったから。





 ――研究室の、素朴なまでに殺風景な給湯室で。

 いかにも、わかりますわ、と神妙な共感の顔を浮かべた、生物学の超優秀者のあの先生。




『専門ではないことを、好んでしまう。効率の観点で、ご自身としても心配ですわよね、南美川の幸奈さん』




 ……はい、とわたしはそのときか細く、返事をした。



 このひと、

 ネイル、ネイルが、……ほんとうに、きれい。

 まさに、赤そのものって感じで。



 そして、それが似合うなんて、とても、とても、すごい、とっても、すてきだわ、しかも、そのうえ、優秀なの、超優秀者なの――すごい、すごいわ、……すごいんだわ。




『そうですね、優秀者としては……あなたほどの優秀性をもつ者だったら、悩むお気持ちは、とてもわかりますわね……わたくしとしましても、無用なことは、推奨はいたしませんもの』

『……でしたら、やっぱり、やめたほうが――』





『いいえ。よいですのよ?』




 先生は、にっこりと、笑った、――その笑いは真っ白で歯並びもよい口とネイルと同質な色をした赤が目立って、とっても、……とっても完璧性に近い、すてきな、とてもすごい、……すばらしい笑みだったのに、どうして、どうしてわたしはあのとき――凶暴だ、なんて思ってぞっとしたんだろう。






『わたくしの美学はね南美川の幸奈さん。優秀ならば、なんでもよいということですのよ』

『優秀ならば、なんでもよい……』




 その言葉は、わたしにとってスローガンとして響いた。

 語呂がよくて、でもわたしにとっては、すごく、すっごく当たり前の、真理を語っていて……だから、その意味も価値も、すっと、胸の奥底まで、すとん、と――まっすぐに、入ってきた。




 ……そして。凶暴だからこそ。




『あなたは、優秀。わたくしは、あなたが優秀であることに、興味があるのです。なので、あなたの個人的な無駄も、非効率性も、問いませんわ、南美川幸奈さん。……わたくし、あなたの経歴が好き。一年生と二年生のときに残した、達成した、学業成績が、研究実績が、好き、好きですのよ、――あなたの優秀性をとっても、とっても愛しているから! 優秀ならば――なんでも、よい!』




 そう言ってにっこりと眩しいほどの満面の笑みで両手を広げた、




 このひとのこと、……この先生のこと、わたし、尊敬できる、って。だから、わたし、ぜったいここに入りたい、優秀であり続けます、わたし、優秀です、優秀ですからって――小さな子どもみたいに、叫んでしまったんだ。

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