人権制限者の管理者の青年は迎えにくる

 僕はどうしようもなくて、しばらくそのまま呆けるミサキさんの前に立ち尽くしたままぼんやりしていた。いや、ほんとに、どうすればいいんだ、これは。こんな状況。なにが起きているかもわからず――しかしたしかに、あの幼稚な落書きのような空といい、Necoが起動しないことといい、なんらかのかたちでここは……化の言う通り、切り離されてしまったのかもしれないと思う。


 しかし、だとして、どうすればいいのだ。

 責められていると感じている。そんなふうに感じるこのひとに、いったい、僕ができることなんて――。






 芝生は見る見るうちに艶やかさと煌きを増していく。

 そのうち、踊り出しでもするんじゃないかと思ったら――ぴょこりとひとつの雑草が両手を広げておどけたみたいな動作をして、僕は、……心底ぞっとした。





「――ちょっと、通してくださいよ、ああ、――いた、いた!」




 小さな子どもを蹴り飛ばすほどの勢いで一直線に向かってくる姿。苛立ちが極度に達しているのか、金切り声にも声。

 僕は彼を知っている、――人権制限者には怒鳴り散らすのに僕にはやたら慇懃な、あのひとだ。

 人権制限者の帽子も服装もそのままに……ただ表情だけが、もう余裕ない素のものとなっている。そのように感じた。



さがしていたんですよ。あなたなら、どうにかなる。さあ、来てください!」



 彼はベンチの前まで来て、僕の腕を勢いよく掴んだ。

 僕の顔さえ見ないで。

 その力があまりにも強く、突発的な痛みで僕はほんの少しだけ呻き声を喉の奥から漏らしてしまった――情けなくは思ったが、それだけの力だったのだ。



 ミサキさんが腰を浮かせた。



「ねえちょっと、あなた、なんなの。お若いからって、いきなり他人ひとさまの腕をひっつかむなんてねえ――」

「申し訳ございません社会人の先輩のかた。しかし、緊急事態なんです。このひとのお力が必要です。この社会人のかたのゆえんは即ち正しくNecoプログラマーでいらっしゃることですから――」

「いまね、その子はね、私としゃべっていたのよ」

「申し訳ございません大変申し訳ございません。しかし、現状の解決には代えられないのです、社会人の先輩のかたはどうかここのベンチで安全に待機してください」

「安全に、って。なにそれ! やっぱりいまは危険な状態なのね。しかもあなた、なんなの。その格好、より公的な人間よね。帽子なんか被っちゃってさ。なにかこの事態に関係あるっていうの!」

「いいえ我々はまったき被害者。なにもかもわかっておらず。人権制限者たちの混乱は甚だしく、我々はそれをコントロールすることの責務。まずは現状を説明でもなんでもしていただかないと。さあ行きましょう社会人のかた。――社会におけるその専門性を非常事態には社会のためにあますことなく発揮するのもまた社会人の責務のひとつですね? 其れも、とても大事な。なにせあなたは立派な社会人でいらっしゃってNeco対話という専門性もおもちで――」




 きゃん、と甲高い吠え声が響きわたった。

 天にも届いてしまうのではないかというほど高いその鳴き声は、たしかに、……南美川さんがなんらかの意図をもって発したのだった。




 南美川さんは人権制限者の管理者の男性の腕に噛みついた。思い切り。食いちぎってしまうんではないかと思うほど。

 いてててて、と声を上げ、男性は南美川さんを振り払った。南美川さんは、芝生の上にしりもちをついてしまう。しかし、諦めない。また四つ足で起き上がり、果敢にも腕にもういちど噛みつきにいく。ううー、と唸っているのは犬らしく見えるためわざとだろうか、それともかりにも調教施設で人犬として調教されたさいの感情表現の方法が身についているのだろうか。つまり、怒り。つまり、抗議。つまり、言葉をほんらい扱えない存在、――動物、であるからこそ、用いるそういう表現方法――。



「いったいな! もう! なんだよ、おまえ!」




 男性は、無理やり振り落とした南美川さんのお腹に、強烈な蹴りを食らわせた。

 芝生に落下した小さな南美川さんは、お腹を抱えるかのような格好でうずくまる。



 僕は急いでその隣にしゃがみ込んだ。



「……南美川さん。だいじょうぶ」


 問いかけると、悔しくて悔しくて仕方なさそうな涙目で、僕をすがるように見てきた。



「そっか。……だいじょうぶだよ。ありがとう。僕を、かばってくれたんだね」



 僕は、よいしょ、とあえて間延びしたテンポで立ち上がった。

 そして、男性に向き直って語りかけた。



「……僕はNecoプログラマーですし、社会人はその専門性をいかなるときでも社会で発揮し、緊急時にはその場での対価を望めずとも全力でその専門性で奉仕すべきという社会人原理も、よくよく成人するときに教わってます」



 ああ。教科書みたいだ、こんなの。僕が。この僕が。――そんな言葉を上っ面だけとはいえ口から出していくなんて、なんと滑稽なんだろうか。



「だから、協力は惜しまない。僕なんかに協力できることがあるとすれば、ですが。協力します。でも。……だけど」



 南美川さんが、ちゃんとリードでつながってくれているのを自分自身の右手で確認する。




「だけど、……この人犬のひとには、手を出さないでください」




 ……人犬の、ひと。

 変な表現だとは思ったけど――それ以外のうまい表現が、見つからなかったのだ。





 男性は、訝し気な顔をした。それは、そうだろう。……僕だって、ヒューマン・アニマルというのは動物なんだとぼんやりそう信じ込んでいたときにそんな表現を聞いたら、変に思うに違いなかった。




「……わかりました。とにかく、いっしょに来てくださいますね」

「はい。……あの、ミサキさん。いっしょに、来ますか?」



 振り返ったらミサキさんは驚いた顔をしていて、しばしまばたきを繰り返していたけれど、やがてふっと気が抜けたみたいに苦笑した。



「……いいえ。ここで、おとなしく待ってるわよ。安全に待機、とやらね。だいたいこんなおばあさんがいっしょに行ったって無駄なだけでしょう」

「ご協力、感謝します。社会人の先輩のかた」




 青年は、頭を下げた――そこで感謝なんかしてしまうことの残酷さをはたしてわかっているのか、いないのか、……しかしそのあと僕の右腕を今度こそとしっかと掴んで国立公園の人造の自然のなかを進んでいくこの様子を見ていると、……もしかしたら、この男性は、天然でそういうたぐいの残酷さがわかっていないのかもしれない、――ずっと、強者で生きてきたのかもしれないなんて僕はぼんやり思って、だからこそ、こんな速いペースじゃついてくるのも大変だろう南美川さんを振り返って、必死に歩んでくるそのすがたに、……せめてと、微笑みかけた。僕のそれは、ずいぶん、……余裕なく、醜くて、気持ちの悪い笑みになっていたことだと思うけど。

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