責められていると感じている

 僕は、ゆっくりとミサキさんの前に歩み寄った。

 ベンチに座ったままのミサキさんを見下ろす格好になると、ああ、とやたらのんびりした声を上げて、ミサキさんは僕を見上げて見返してきた――そのあまりの虚ろさに、僕は、すでに、……もうどうしていいかわからなくなって、いたたまれなくなる。



「ああ。お若いかた。これは、どうしたのかしら? お空に、おままごとみたいな文字が描かれているわ」

「……おままごとみたい、ですか」

「ええ。なんだか、幼稚で、小さな子の書いたものみたい……でもそれにしては虹の感じがはっきりしてるわよねえ。なんだろうな、いい大人が、精神退行しちゃったような。そんなときに、空に落描きしたような……ねえ、そうは思わない、お若いかた」

「……どうなんでしょう」



 あれを書いた者の見当は、もちろんつく、南美川化だ――たしかに南美川化は若いとはいえ大学生、子どもというよりはもう大人だ。優秀ゆえに成人したのも早かっただろう。そんな人間が、たしかに、あんな文章を線文字で書くことは一種の幼稚さ、アンバランスさに結びつくと言えなくもない――ただし虹の感じというのもほんとうにミサキさんの指摘通りで、虹の質感は、……驚くほどに鮮やかで、生き生きとしているのだった。



「みんなで、なかよく……かあ」



 ミサキさんはどこともつかない空中に微笑みかけていた。



「みんなで、仲よく。……それができれば、苦労しないのにね。ねえ……そうよね。お若いかた」



 僕は、黙っていた。……みんなで仲よくできれば苦労しないってことが、僕は、体感としてはよくわからなかったから。



「いま、なにが、起こっているのかしら。……さきほどから家に電話をしても、出ないのよ。私、あの仔が、……うちのペロちゃんが心配で……」

「ペロちゃんって……犬、ですか。あの、ダックスフントの」



 ――人犬の。



「ええ、そうよ、そうよお……なんでもかんでもぺろぺろ舐めちゃうから、ペロちゃん。……なにか悪さをして怒られたあとにはかならず私の手をぺろぺろ舐めて、かわいかったんだから……」



 右手に握るリードの揺れた気配をもちろん僕は意識していた。

 人犬になる調教施設のことは断片的ではあるが、南美川さんに聞いた話もいろいろとある。

 人犬に加工されるということは、それまで培ってきた人間的なところを壊され、そこに犬としての振る舞いを植え付けられるということ――舌を出して目の前のものを舐めとることで、心からの謝罪や、信頼、恭順をあらわすことも調教されるという。そういえば南美川さんも最初のころにはやたらとものを舐めていた――いまでこそ頻度は減ったけど、それでも、南美川さんは、ほんとうに泣きそうな顔をしながら、……ほんとうにどうしようもないといった感じで舌を差し出す、ことがある。




 ……その特徴をつかまえて、ペロ、か。うん。犬らしい名前ではあると思うが、しかし、それゆえに――。





「……私が帰らないと、ペロちゃん死んじゃうのに」




 それは、……人犬の、真理。




「どうして、だれにも、連絡がつかないのかしら。……ネコさんに話しかけても返事もしてくれないのかしら。見捨てられたのかしら。私たちは。あんまりにも私が失敗だらけの人生で、不器用で、人間関係がいつまで経っても何歳になってもちっともうまくいかなくて、……孫も、ペットの仔犬も、ろくに面倒を見れないから、ネコさんが、ああやって――お空に私に対するメッセージを書いて、私を責め立てているのかしら」

「いえ、そういうわけでは――」

「あなたに、わかるの」



 ミサキさんはうつむいて、ぞっとするくらい低い声音で言った。



「私がどれだけろくでもなくて後悔ばかりの人生を歩んできて。ひとに、なんでも責め立てられて。……こんなおばあさんになってまで、なにひとつ改善できなかった、そんな私が罰されるのは、当然、当然よ、――それなのになぜそれが違うと言い切れるのかしら。お若いひと」




 ……ここで、論理的に説明することはできただろう。あるいは、状況をきちんと説明することだってできたのだろう。

 しかし、信じてもらえるかどうかという以前に、僕は、……それは違います、ひとりの青年あるいは一組のふたごのせいなんです、と言う気には、なれなかった。






 ミサキさんの言う通りに。

 僕には、わからないから。




 空に描かれたあの一文を見上げて、ただただ呆けたように、白髪をそよ風に晒して輝かせて、責められていると感じているこのひとのことなんてほんとうはなにひとつ、わからないから――このとき僕がわかることがあるとしたら、ただひとつ、……さきほどは、芝生広場にこんなに爽やかでおあつらえ向きなそよ風なんか吹いていなかった。微塵も。

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