やっぱり、僕は変われていない

「……ねえ、あなた、ほんとうにだいじょうぶなの?」



 ミサキさんに心配されるが、こちらから言うべきことはとくにない。

 なにもないのだ。

 僕の心がいまかき乱れているのは事実だけれど、

 ……さっきの三人組との出会いのことだって、とくに、このひとに言う必要も義務もない。


 僕が、だいじょうぶであろうが、なかろうが。

 そんなことを言いたいとは僕は思わないし、訊かれたって言う気にはなれない。


 ……僕はつねにだいじょうぶではない。

 自分自身の実感として、強く、そう思っている。

 けれど。そのうえで。そんなことは――だれに言うべきことでも、ないのだ。



 ……ふいに、母さんに頬をはたかれて、僕が人間だと言われたときのことを思い出す。

 自主的に、畜肉処分になりたいと僕が言ったあの日のことだ。

 いまでは、感謝している。子どもを、……人間とも思わない家庭なんて、ごくありふれているんだと知ったいまなら、なおさら……ありがたいと、思っている。



 ――でも。それでも。

 すくなくとも、あの瞬間には……僕は、ああ、そういえば、……驚きとちょっとした切なさといたたまれない申し訳なさのほかに、たしかに、……いまのこの気持ちの、芽のようなものを、感じていたんだ。




 ……なんだよ。

 ほっといてほしい、って。


 そうせねばいけないような気がするから、僕のことを心配しているだけで。だから、それは、いわば社会的義務で。社会人だから、そうするだけで。



 ――春は、人間なんだから。



 母さんは、たびたびそう言ったが。そのことは、嬉しくもあり、ありがたくもあったが、……なぜかあんなにも重たく感じた。

 その、答えが、……何年も何年も経ったまるで関係なさそうないまこの瞬間に、ちょっとわかってしまった気がしたのだ。




「お若いあなたは、素直で、優しいのはいいのだけど、自分のなかに抱え込みすぎていないか心配だわ」




 僕という存在をなにも見ていない。なにも、見えていない。僕という存在の、……ほんとうのところの本質や、……奥底にある、なにかなんて、なんにも。

 僕はほんらい人間に値しない。たまたま、タイミングがずれて、人間の皮をかぶって生活しているだけなのに――ああ、そうか、だから、……みんな、皮のほうしか見ていないんだよな。




 わかっている……わかっているさ。

 そう思いながら僕は、……足もとでもの言わず縮こまってる南美川さんに、思いきり、……すがりたくなった。

 ああ、とまたしても深い倦怠感と疲労感を感じた。もちろん、そんなみっともないことは実行しないけれど、……こんなことを思うことじたいが、僕は、ほんとうにばからしい。





 ほんとうに、人間に値しない――。





「……だいじょうぶです。ただ、ちょっと今日はあったかいから、……かえって疲れたのかもしれないです、……はは」



 笑い声のオプションまで、つけてあげたのは――脅える僕の、せめてもの、コミュニケーションにおけるサービス精神だ。むかしから、ああ、むかしから。……みっともないところも、情けないところも、ばからしいところも、僕は、僕はなにひとつ――変わってはいない。変われてはいない。



 ミサキさんはふしぎそうなつぶらな目で、僕を上から下まで眺めまわしてきた。……じろじろと、とか思ったら、失礼すぎるんだろうけど。



「そうよねえ、あなた、なんだかすごい防寒装備だもの。全身、黒ずくめでねえ。たしかに、黒っていうのは光を吸収しますからねえ、真冬にはいいけれど……」

「……いえ、これは、……まあ、普段から」

「へえ、そうなの……ほらあなた髪の毛も長いから。私の時代では男の子がそんなに伸ばすことなんてまだ珍しかったのよ」

「はあ……まあ……そうなんですよね……」



 ああ。ほら。――なにも、会話なんて成り立っていない。



「もしかして、あまりお洋服を持っていないの?」

「……まあ、そうといえばそうですけど、……まあ」


 ぽん、とミサキさんはやけに嬉しそうに手を叩いた。


「だったらおばあさんが今度おさがりをあげるわよ! おばあさんの洋服なんて、って思うかもしれないけど、あなた細身だからいけるわ。入りそう。ああ、それより、作ってあげたっていいのよ? どうせ老後になんの楽しみもない、こんなおばあさんなんだもの。ねっ、今度お洋服あげるわ、もちろんお金も社会評価ポイントも要求なんてしませんからね、、ね、ねえねえ、――どうかしら?」



 ――だから、誤解しているんだってば。

 僕は、ほんとうは、こんなにどうしようもなくて、……目の前の人間のことがこんなにもどうでもいいくらいにはほんとうに、クズの心をもっているのに、どうして、どうしてだ、……社会人だからって、それだけのことでみんなが誤解してくることにいいかげんうんざりし始めてるのに、それなのに、……なのに、



「そうだわあなた。連絡先を、交換しましょう。ここで出会って、二日間も出会ったのもなにかの縁だわ!」



 ああ、……散歩のルートや、スケジュール、……変えておけばよかった……。






 僕は、そのまま、この人間と連絡先を交換した。……オープンネットとはいえ、今日は、連絡先が四個も増えてしまった。

 家族の連絡先が入っているのさえ、やっぱり、いつまでも慣れずにしんどいのに……それなのに。



 ――断りきれない。

 怖い、怖いよ、……他人は、怖いんだよ。なにか失態を犯したら、僕はまた身ぐるみも尊厳さえも剥がされて、罰されるんじゃないかって思って――。




「こんなおばあさんだけど。これからもよろしくね、春くん。……悩みごとなら、いつだって聞くわ、二十四時間対応だなんて――ふふっ、言葉が古いわね?」




 変われた、と思うたびに、この社会に人間という存在に、僕は足元をすくわれ続ける。

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