自分勝手に

 だから。

 僕は、せめて精いっぱい、こう返した。



「……いえ。なんでもないです。なんにもないです」

「あらあ、そう? そうなの……」


 ミサキさんはひとりで、うん、うんうん、とうなずいている。やがてなにかをひとりで納得したのか、そうねえ、そうなのねえ、そりゃなにもないんじゃ仕方がないわ、とひとりごとを言って――たぶん、そこで僕を心配するモードというのは、いったん区切ったようだった。


 そしてその瞬間ぱっと顔を輝かせる。まったく、このミサキさんと名乗るひとは、おばあさんというのは、いや、……人間というのは、よくわからない。

 どうして、そんなふうに自分勝手にひとを心配しておいて――そしてまたしても自分勝手に、そんな切り替えることができるんだ。


「あのねえ、今日はうちの仔、ああ、――ダックスフントの女の子のほうね、連れてくるの、やめたのよお。どうしてだと思う?」

「はあ……どうして、なんでしょうか……」

「今日はねえ、とっても寒いし、お散歩しちゃったら可哀想だし。それにあの仔、手足が短いせいかよくこうね、胴と手足の付け根というのかしらね、あとおなかとか、這っちゃってでろでろ真っ赤にしてるし、だからそういう日だったらお外でお散歩なんてつらくって可哀想でしょう? 嫌がるのよ、あの仔。きゅーん、きゅーんってね、かわいらしくはあるんだけど。その点、あなたのワンちゃんは、えらいわねえ。昨日もお散歩して、今日もお散歩でしょう? まあ……本当なら犬にとっては当たり前のことだものね、やっぱり、私がうちの犬のこと甘やかしすぎなのかしらって――」


 ……つまりそれは、と僕は意識して少し大きな声を出した。そうでもしないと、……ずっと、しゃべってこられそうだったからだ。


「つまり、……つまり、だから、寒かったから連れてこなかった――と」

「ああ、いけない、おばあさんになるとすーぐに話が脱線しちゃってねえ、いけないわあ。そう、そうそう、そうなのよ。ほらこんな寒いでしょう。あれ以上、身体を真っ赤にされても困るし。だからっていうのもあるわ。でもね。――連れてこられなかったのよ。くることが、できなかったの」

「……はあ……」

「どうしてだと思う?」

「……どうしてなんでしょうか……」

「もうねえ、聴いてちょうだいよ、朝からひどいの。うちの娘とその旦那がね、今朝からもう大喧嘩。些細なことよ、きっかけはほんと、些細なことで、でもけっきょく孫を今後どうするかって話になるの。孫の前ではやめてって言ってるのに、私いつもそう言って止めに行くのに、ねえあの旦那なんて言ったと思う? 『お義母さんには関係ありません』だって」



 ……はあ。



「『何よ、関係なくなんかないでしょうよあなた、私はここの家族よ!』ってもちろん私言ったんですけどね、あの旦那、『そもそもお義母さんがもっと早くに気づいていれば! 先取り教育をしていれば!』って、そればっかり、いつもそればっかり、娘だってちょっとは止めてほしいわよね、私の娘よ? なのにどうしておろおろしてしかも最終的に旦那の味方をするのよ、ねえ。許せない。許せないわ。――そう思ったらむしゃくしゃしちゃってそのまま家を飛び出てきちゃったの、うふっ、……お恥ずかしいわね。おばあさんにもなって、家出をしなきゃなんて、……若いころには、想像してみたこともなかった」



 そうやってしゃべるさまは、先程の、葉隠雪乃の自分勝手な先走りすぎる想いとも重なった。――いまにも、その一見清潔そうな口から、人間生理としての唾液がつばとなって飛び出してきそうで。



「だから私、今朝は朝からここにいる。もっとも、そんなことは珍しいことではないんだけどね? うふふ。この季節は、寒いけど、……あんな無理解なひとたちばかりいるおうちよりはマシよ。だから、私、……今日はあの仔を連れてくるひまもなかった。可哀想ね。そういえば、エサあげるって言って私お部屋を出たのに、……あのあと飛び出ちゃったから戻らなかったわ、暖房もつけたっけつけてないんだっけ、悪いことしちゃったわね、今日は早めに帰ってあげないと……」


 状況じたいは、理解はできたけれども。そしてそのことが、僕自身となにがどう関係あるかなんて、いまだにやっぱりわからないけど。

 でも。それでいて。ちょっと、ちょっとだけ、……気になるのが。



「……あの。そのあいだ、お孫さんはどうしてたんですか」



 ミサキさんは、なにを言っているかわからないとでもいったように目を見開いた。だから、僕は言葉をつぎ足す。



「あの、その、……だから、お孫さんのことを言い合って、そのときお孫さんって、……どうしてたのかなって。たしか、今日は休日だから、おうちにいるんですよね――」

「……ああ。そういえば、どうしてたんだろう」




 ミサキさんの声はふいに低くなって、妙にしっくりと老女らしくなった。




「最初はねえ、リビングにいたわ、たまごやきを不器用な手で食べててねえ、でもいつのまにか、……そうねえ旦那と立ち上がって向かい合ってやりあっちゃったときにはもうリビングにはいなかったわ、そうだわねえ、あの子そういえば――いつのまにリビングに来ていつのまにいなくなったのかしら?」





 ……お孫さんが、話題の主役のはずだが、お孫さんの姿はたぶんもうそのひとたちの眼中には――ないのだろう。




 僕は、思う。

 この世のひとたちは、てんでバラバラ、勝手に生きては勝手に考えて勝手に苦しんでいる。

 そしてほかならぬ僕自身も、勝手なのだ。勝手極まりないのだ。ひとというものに対して、落ち込んだり、がっかりしたり、呆れたり、そうやって勝手な判断ばかりしている。自分勝手だ、僕は、ほんとうに。こんなにも自分勝手に、……今日もただひとりひとを嫌いになっていってる。

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