雑木林
社会から、この世からまるで隔離されたかのような雑木林で。
人の死なない程度の、でも人犬の身体にとってはきっととても寒い真冬の冷気。ときどきさえずる、機械鳥の気持ちよさそうな鳴き声。どちらも、もちろん。不自然な、……ものだけれど。
……ふたりでいるのに、ひとりでいるみたいだった。
ふたりで歩いているのに、こんなにもお互いひとりで歩いている。
それは、単に外では不用意に言葉による会話を交わせないからといった事情もあっただろうけど、たぶん、なにか、それ以上に、……なんとなく踏み込めない、お互いのもの想いの気配があったんだと思う。とはいえ、南美川さんのほんとうのところは、僕はもちろんすべてわかりきることなどできやしないのだが――。
土を踏みしめる足音と、寒さと、機械鳥の鳴き声と、……ときおりすれ違う社会人のひとだけが、ここには存在している。
しばらく、歩いた。
そのまま歩いていた。
スマホデバイスにインストールした歩数アプリで、本日の三分の一のノルマが消化されたことを知らせてくれたアラームのついでに、ふと、時間を確認すると、……お昼が確実に近づいてきていて、でもまだお昼休憩にするには早い時間。正午までには、まだ少し間がある。
……そうしてしまってもいいのだけど、万一ということが怖いのだ。
その日のうちに、……厳密には日付の変わりきるまでに、ネネさんの課したノルマをネネさんの指定してきた歩数アプリで記録してネネさんに証明しなければ、……もう、南美川さんを人間に戻すチャンスは、そこで失われることになる。
ネネさんの話だって、僕はよく覚えている――いつでもどこでも、頭の片隅に残っている。
あの日、あのとき、病院で話してくれたこと。
……人間に戻す薬の入手方法の難しさ。副作用があっても、それでも投与を続けるネネさんたち。そのためにおそらく共同研究者というひとと自分たちの独断であってもきっちり決めた投与のルール――。
……おそらく、ネネさんたちのくれるチャンスを逃してしまえば、次のチャンスを見つけることは非常に難しい。
僕にだって、そのくらいのことは、……よくわかっていた。
だから、だからこそだ。
失敗をしたくないのだ。
わずかなるミスでも、失敗につながりうるから怖い。
具体的に言えば、いま午前中に調子よく歩いていけたって、午後は、……疲れ果ててなおかつもう三日目で疲労も蓄積しているだろうときでは、どうなるかなんて、わからないってこと――。
……どうしようか。
南美川さんを休ませてあげたい、そんな気はするけど、――でももっと本音を言えばもっともっとノルマを稼いでおきたい。
もっと……もっと……歩けるうちに。できるうちに。そうしないと、ノルマが。ノルマが、達成できない。そうすれば。南美川さんはずっともしかしたらこれから一生――。
……ああ。混乱してきた。
思考もだし、なんか、……気持ちが、やっぱり……。
……だから。
南美川さんに尋ねるため、事前に決めたシグナルでちょいちょいと問うようにリードを引っ張ると、南美川さんはこっちを見上げてきた。顔が、真っ赤だ――この寒さのなかでもそんなに火照ってしまうほど、……やはり、その身体で、そんな距離を歩いていくというのはつらいこと。
「……お昼、食べたい?」
南美川さんはりんりんと首輪を鳴らして首を横に振った。……まだ、いい、もうちょっとがんばる。表情、噛み締めた唇の感じから見ても、そういうことだろう。僕もうなずいておいた。なるべく、しっかりと。このひとのくじけそうな心に、僕もくじけてしまわないように。このひとが、そんなにつらいなかでそんなに人間的な表情ややりとりを保っているのだから、僕だって、そのように――。
……南美川さんは歩くことに戻っていった。歩くことにひたすら集中しているのだろう、……よくよく気にしてみれば、その呼吸はすでに小刻みに短くて、あえいでいる、体力が午前であってもすでにそこまで限界を迎えているのだ、――それなのに。
このひとは、……迷わず躊躇なく歩き続けることを選ぶ。
南美川さんは、やはり、強い。
この時刻でこのノルマぶん歩けていたら、あるいは、ちょっとくらい――そんなふうに考えてしまう僕よりもやはり、……人間であるのが、ほんとうはずっと、僕なんかよりはるかに似合う、いや、より正確に言うのであれば、僕なんかより人間であることがずっとずっと自然なひと――。
……そして、僕たちは。
唐突に、出くわした。
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