食べる
ランチボックスを取り出した――ピクニック用の、おしゃれなやつだ。まるで木のかごのような、オールディなデザイン。
……オープンネットで南美川さんと散歩の日用のランチボックスを見ていて、南美川さんがこれがいいって言ったから、これにしたのだ。
そのなかには、今朝僕の作ったサンドイッチがぎっしりと詰まっている。
サンドイッチなんて自分で作ったことはなかったが、シンプルな手順を踏めば案外作れるもんだとわかった。そういえば、僕は南美川さんと暮らしはじめてから、……望んでもないのに料理の腕が上がってきたらしい。
「ごはんにしよう。サンドイッチ、作ってきたろ? 朝、楽しみにしてたよね」
「……朝のことは、朝のことだもん……」
「まあ、そんなこと言わずにさ。……たまごと、ハム、どっちからがいい?」
「……じゃあ、たまご……」
ふて腐れながらもそれはしっかり言うもんだから、僕はまたちょっとだけ笑ってしまった。
うん、とうなずいて、ランチボックスを開く。……とてもコンパクトに作った。南美川さんに、食べさせるためだ。
ウェットティッシュを自分自身の黒いジャンパーのポケットから取り出すと、まずは自分の手を軽く拭いて、そのあと南美川さんの口もとや顔を拭う。
汗やら、汚れやら、……涙やら。食事の前に、落としてあげるのだ。
そういうのが落ちるのはただ単純にシンプルに心地いいことなのだろうか、……南美川さんはちょっと目を細めて、じっと身じろぎもしないで、その顔に僕がふれさせるウェットティッシュを受け入れてくれていた。
それが終わると僕はもういちどウェットティッシュで自分の指を拭く。……南美川さんに食事を与える手なのに、汚れていては大変だから。
もともと、僕の手も指も、……このひとのよりずっと汚いもののはずなんだし。
そのことを嫌でも教えてくれたこのひとのほうは、……いま、人間の手足を失ってしまってるわけだけど。
……そっと、柔らかく、なるべく繊細な手つきになるように心がけながら、ガーゼのように小さなサンドイッチを、指でつまんだ。
「はい。たまごだよ。……口、開けて」
南美川さんは口をあんぐり開けた。
……その真っ赤な口のなかに、サンドイッチの隅っこをちょこっと押し当てるかのように差し入れる。
「ぱくってして」
いつもの言葉を言うと、南美川さんは口を閉じて柔らかいサンドイッチを噛み切った。
「うん、そのままもぐもぐしてね」
……これも、いつも通り。
もぐ、もぐ、とゆっくり、咀嚼していく。
……南美川さんのいま噛み切ったサンドイッチの部分は、ほんとうにわずかだ。小さく作ったはずのサンドイッチの、そのさらにわずかなところ。そのくらいは、……噛み切られたというのにほとんど原型を留めたままのこのたまごサンドを見ていれば、とてもよくわかる。
……口、開けて。
……ぱく、ってして。
……もぐもぐして。
うちに来たばかりのころ、南美川さんは人間の食事の仕方さえ忘れていた。
ずっと、這いつくばって、犬用の皿に盛られたごはんとも言えない、エサ、を、
人犬用ドッグフードや、ときに、ごちそう、と言われて出された人間の臭い残飯を、
たぶん信じられないくらいとんでもなくマズい物体のあれこれを、
たった数分の時間を与えられて、口と舌だけを使って顔をべちょべちょにして舐め取る、がっつく、
とてもマズいのに、マズいけど、……出されたものを食べられるときに食べないとおなかがすいてしょうがないから、
なんなら、体温が下がってしまってもっともっと寒い思いをするからって、
そんな、健気にも、目と耳を塞いでしまいたくなるほどの調教施設での食事ばかりを――繰り返してきたから。
……僕は、だからやっぱりほとんどイチから、このひとに食事の仕方を教えたということなのだ。
人間の、人間らしい食事の方法を。ああ。……最初、ハンバーグの切れ端ともいえない極小のカケラで南美川さんがあんなに泣くほど喜んだのは、……けっして、不自然なことでも奇妙なことでもなかったのだ。
口を開けて食べ物を入れて、食べ物を噛み切って、食べ物を咀嚼していく……。
そんな、当たり前のことでさえ、――このひとにとってはたしかに人間性の回復の一貫だった。いや。……僕が、勝手にそうしただけなんだけど。そういうことにしたくって、そうなるように、そういう手伝いをなかば無理やり自分勝手におこなっただけ、なんだけど――。
……そのとき、ひとりのおばあさんが、通りすがった。
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